定年後の生活ブログ

定年後に行政書士となり、四国のことを発信しています

住友の基礎を築いた男:広瀬宰平

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広瀬宰平の銅像

1898(明治31)年、広瀬宰平の古希を記念して住友家が高村光雲に依頼して製作された像です。

戦時中に供出されましたが、2003(平成15)年に東京芸術大学により復元されました。

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生い立ち~

1828年 近江国野洲郡(滋賀県野洲市)で生まれました。

1836年 9歳の時に別子銅山に移り、11歳で住友家に奉公に出ます。

1855年 28歳の時に広瀬家の養子となり広瀬宰平(ひろせさいへい)を名乗ります。

1865年 38歳で抜擢されて別子銅山の支配人となりました。

1877(明治10)年 50歳の時には住友家長から総理代人として指名され住友家の事業を監督処理することになります。

1882(明治15)年には住友家法を定めています。

1894(明治27)年依願退職により須磨に隠棲。

1914(大正3)年、87歳で死去。

別子銅山の近代化

明治維新の際には別子銅山は新政府に接収される危機がありました。しかし、経営のない者に任せると利益が出ないどころか国家の大損害になるとして住友の経営を守りました。

1876(明治9)年にフランス人技師ラロックを迎えて銅山の近代化に着手すると共に、部下をフランスに留学させて西洋の近代技術を吸収させています。

海運の近代化

1872(明治5)年にはイギリス人から中古の蒸気船を購入して「白水丸」と名付けています。

以後、数隻を購入したり新造したりして海運業も営みます。大阪商船会社(のち商船三井)を設立して初代頭取となっています。

新居浜市にある旧広瀬邸

別子銅山を支えた実業家の先駆的な近代和風住宅として国の重要文化財に指定されています。広大な敷地の中には母屋だけでなく新座敷・内庭・東屋・持仏堂・書庫などが配置されています。

玄関

玄関、客人を迎えるための立派な作りです。

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室内

座敷、和風の間取りが続いています。

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茶の間

茶の間には、掘りごたつや暖炉がありました。

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台所

とても広い台所です。たくさんの客人をもてなすための料理がここで作られたことでしょう。

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洋風トイレに風呂場

2階には洋風トイレがありました。

明治の建物なのに洋風トイレがあるというのは、当時としては先進的なものだったと思います。

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2階からの眺め

2階からは新居浜の市街を一望できます。

広瀬宰平は、別子銅山や住友家の繁栄、新居浜や日本の産業発展を、ここから構想していたのでしょうか。

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内庭

近代日本における地方の庭園文化を示すものとして国の名勝に指定されています。

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広瀬歴史記念館

旧広瀬邸の隣には、新居浜市によって広瀬宰平の事績を紹介する記念館が設置されています。

新居浜市の発展にとって重要な役割を果たした人物だと思います。

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おわりに

広瀬宰平は別子銅山を発展させるだけでなく、住友発展の立役者として重要な人物です。

そこには丁稚奉公からたたき上げるという並外れた苦労と努力があったと思います。

その様な人物が四国で活躍していたことを、改めて認識することのできる施設でした。