鳴門市ドイツ館
第一次世界大戦時にドイツ人捕虜収容所が鳴門に設置されます。
3年程の期間ですが、捕虜と地元の人々との交流がありました。当時のドイツ人捕虜の様子や地元の人々とのあたたかい交流について知り、日独の国際交流を深めるためにつくられた記念館です。
坂東俘虜収容所
1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発すると日本は、青島を拠点として山東半島を植民地としていたドイツ軍と戦いました。
戦いは早期に終結し、4600名以上のドイツ兵捕虜が日本へ移送されます。
この内、約1000名が鳴門に集められ1917(大正6)年春、坂東俘虜収容所が設置されたのです。
以来、およそ3年間に渡る捕虜生活がこの地で営まれました。
収容所の生活
松江豊寿所長は捕虜に対して人道的に接する博愛の精神で臨んでいます。
このため捕虜たちは自主性を重んじた創意工夫に満ちた生活を送ることが出来ました。
手に職を持っている者は製パン所、菓子店、理容、仕立屋、印刷所などを営みます。印刷所では収容所新聞まで発行しています。
スポーツ、演劇、音楽活動も盛んでした。
捕虜たちは畜産・製パン・スポーツ・芸術などを指導してドイツの文化や技術を地元の人々に伝えました。このため地元住民との交流も深まり、住民は親しみを込めて「ドイツさん」と呼ぶようになるほど打ち解けていました
板東俘虜収容所は捕虜たちに可能な限りの自由を与え、地元の人々との交流も許した模範的な収容所だったのです。
松江豊寿(とよひさ)所長
可能な限り自由で人道的な収容所の運営は、松江豊寿所長がいたからこそ可能であったのです。
人道的に捕虜を取り扱うという松江所長の考えの基になったのは、旧会津藩士の子供として戊辰戦争の敗者の痛みを知っていたからだとされています。
会津藩出身者は陸軍の中でも肩身が狭く、そのような敗者の痛みを身をもって味わっていました。だからこそ、ドイツ人捕虜が会津人と重なっていて、戦争で負けたのだから厳しくむごい仕打ちをしてもかまわない、とは考えなかったようです。
坂東俘虜収容所をモデルとして映画「バルトの楽園(がくえん)」が、松平健さんが松江豊寿所長役で制作されています。
日本初の「第九」演奏
松江所長の下で、捕虜たちはさまざまな活動を活発に行っています。
中でも音楽活動は活発で、1週間に1度、計100回以上の演奏会が開かれています。こうした演奏会は捕虜たちの心を慰めるものでした。
1918年6月1日には、収容所で結成されたヘルマン=ハンセンが指揮する楽団によって、ベートーヴェンの交響曲第九番が日本で初めて全楽章演奏されています。
1997(平成9)年、ドイツ人彫刻家ペーター・クッセール氏により制作されたベートーヴェンの像が建てられていました。
おわりに
坂東俘虜収容所の松江豊寿所長による人道的な捕虜の取り扱いがあったことによって、さまざまな日独の交流があり、鳴門市ドイツ館も建てられました。
どんな状況の中でも、人を人として尊重し大切にする人道的な考えは、多くの人々の心を動かす力となっていると思いました。