はじめに
讃岐の国の産物として、塩は砂糖・綿とならんで讃岐三白の一つに数えられていました。温暖な瀬戸内の気候と日照時間の長さが塩の生産に適していたため、盛んに塩生産が行われていたのです。
人の生活に欠かせない塩づくりは、先人の知恵と努力の結晶の賜物でした。まさに人間の歴史と文化の結晶によるものと言えます。
坂出市は塩の生産が盛んであり、そのような塩の歴史や文化について展示・保存している施設が坂出市塩業資料館です。
塩の作り方
日本には岩塩がなかったので、海水から塩をつくっていました。1kgの塩を作るためには40リットルの海水が必要です。
海水をそのまま煮詰めると膨大な燃料が必要となります。日本では、まず海水から濃い塩水を作ってから煮詰めて塩にするという2段階の手法が使われてきました。
揚浜式塩田(中世~)
昔の塩づくりで、かなりな労力を必要とします。次の手順で塩を生産します。
人力で海水をくみ上げ、砂に撒きます。
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太陽と風で砂の水分を蒸発させます。
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塩の付いた砂を集めます。
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集めた砂に海水をかけて、濃い海水を作ります。
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濃い海水を煮詰めて塩にします。
入り浜式塩田(江戸時代~昭和30年代)
揚浜式塩田と同じく塩の付いた砂を集めて海水をかけて濃い海水を作ります。違うのは人間が砂に海水を撒くのではなく、潮の干満を利用して砂に海水を浸すことです。
遠浅の浜に堤防を設けて、大きな塩田の設備を設けなければならない方式です。
流下式塩田(昭和20年代~40年代)
ポンプで海水を汲み上げ、枝条架(しじょうか)という竹の枝を組んだ装置に上から海水を落として濃い塩水を作ります。
イオン膜・立釜法(現代)
イオン膜を利用して海水から濃い海水を作り、煮詰めて塩にします。
久米栄左衛門(通賢)
江戸時代に讃岐の塩づくりを飛躍的に発展させた人物が久米栄左衛門です。
高松藩の測量方であった彼は坂出の海岸が塩づくりに適していると考え、1824年に「入り浜式塩田」の開発を始め、3年半の歳月をかけて完成させています。
塩田は「久米式塩田」と呼ばれ、その後の塩田開発のモデルとなりました。
塩業資料館
資料館では入り浜式塩田で使用されていた多数の道具と塩田で働く人々の様子が分かる展示が行われています。
塩田の仕事は朝の4時から日暮れまで続く、相当な重労働で「浜人の1升飯」と言われるほどの体を使った過酷なものだったようです。
おわりに
人々の暮らしや産業になくてはならない塩のことについてよく分かる資料館でした。
パンフレットと一緒に熱中症対策の塩をもらったり、「さかいでまろ」のスタンプを押したりしてちょっと得した気分にもなりました。