はじめに
石手寺は雑然とした中にも、人々の悩み・苦しみ・欲望を受け止め民衆と共に存在しているお寺です。
様々な現世利益を願って信仰に来る人々を広く受け止めています。
整然とした構えの仁王門・本堂・三重塔のある境内を取り巻く周縁には、人々の願いを叶えようとする願掛けがたくさんあります。
雑然とした雰囲気を醸し出し、パワースポットと呼ばれる所以なのでしょう。
来るものは拒まず、何でも受け止めるという精神世界の中で形作られてきたお寺だと思いました。
境内
渡らずの橋・国宝の仁王門・本堂・三重塔etc
寺内への入り口は混沌としています。
「渡らずの橋」
弘法大師が渡ったとされる橋で「弘法大師お道開きの橋」とされ、誰も渡ってはいけないとされています。
「新しい弘法大師像」
「なぜか龍の上に仏様」
「櫓の中に木像?」{みんないっしょ大仏}の幟が掲げられていました。
「仁王門に続く石畳の参道」
たくさんの絵馬が奉納されていました。
国宝の仁王門
国宝の二王門を入ると正面に本堂、右手に三重塔があります。いずれも重要文化財で、鎌倉末期の建立です。
仁王門には巨大なわらじがあり、足腰の病気が治るといわれています。七福神様もいました。
本堂
大師堂
本堂の右側に大師堂があり、弘法大師と結縁することが出来ます。
夏目漱石と正岡子規が大師堂の縁側に座って、よく話をしていたということです。
重要文化財の訶梨帝母天堂(かりていもてんどう)
大師堂の右側にあり、鬼子母神さまをお祀りしているお堂です。
一切経堂(左)重要文化財の護摩堂
弥勒堂
阿弥陀堂
三重塔
三重塔の前では「不殺生平和の折り鶴」が飾られていました。
重要文化財の鐘楼
鐘楼も鎌倉末期のもので重要文化財です。この中の鐘は住職しか、つけないそうです。
「子宝・安産石」
訶梨帝母堂にある石を持ち帰ると子宝に恵まれ、安産になるとされています。
子供が生まれたら、持ち帰った石に名前と生年月日を書き、新しい石2つと一緒に返しお礼参りをするとされています。
「元気再生石」
本堂の左側に元気石があります。
衛門三郎の伝説にちなみ、石を1つ持って帰って、1年したら7つ添えて8つ返します。
七転び八起の石です。
「大勝、願成就」の石や「大欲、夢成就」の石が置いてあります。
丸い石に触るとストレートに願いを叶えてくれると信じたいものです。
マントラ洞窟
入口
本堂の左側にはマントラ洞窟があります。
入口から、すでに怪しい雰囲気が漂っています。
洞窟へは、この入り口から入っていきます。
弘法大師の修行場
洞窟に入ってすぐを、右に折れて60mほど進むと、弘法大師空海が修行をしたといわれている洞窟があります。
奥の院へ抜ける洞窟
洞窟をまっすぐに160mほど進むと、一木造りの五百羅漢がある奥の院へ通じています。
薄暗い洞窟の中を目を凝らして進んで行きます。
途中に、たくさんのお地蔵さまが立ち並んでいる所がありました。
出口
薄暗い洞窟内をひたすら上がって、やっと外に出ることができました。
この先に奥の院があります。
奥の院
エンマ大王の下をくぐって、藪をかき分けながら上って行きます。
独特の形をした奥の院です。
周りの回廊には一木造りの五百羅漢が並べられていました。
縁起
729年に行基が薬師如来を本尊として開創しました。
813年に空海によって法相宗から真言宗のお寺となっています。
初めは安養寺と言っていましたが、892年に衛門三郎の再来伝説によって石手寺と改名されました。
1566年、長曾我部元親による兵火で多くの伽藍が焼失してしまいましたが、本堂・二王門・三重塔はまぬかれました。
衛門三郎伝説
四国遍路の始まりや「逆打ち」も衛門三郎が由来だとされています。
河野家の一族であった衛門三郎は托鉢姿の僧侶にひどい仕打ちをしました。ところがその僧侶は弘法大師だったのです。
衛門三郎は弘法大師にお詫びをするため、四国巡礼の旅に出ます。
20回巡礼しても巡り合うことが出来なかったので、それまでとは違い逆の順番で巡礼を始めました。
すると12番札所の焼山寺近くの杖杉庵で病に倒れ死を目前にした時、やっと弘法大師に巡り合ってお詫びをすることが出来たのです。
衛門三郎の終焉の地については、こちらをご覧ください。↓↓↓
弘法大師は死を目前にした衛門三郎に「衛門三郎再来」の石を握らせました。
翌年、河野家に男の子が誕生し寺で祈祷を受けると、その石が子供の手から出てきたということで、石が出てきた寺ということで石手寺と改名されたということです。
おわりに
何とも不思議なものがたくさんあり、様々な言い伝えもあるようです。
それだけ人々の願いを広く受け入れてきたお寺なのでしょう。
まだまだ奥の深いところがたくさんあるようなので、もう一度、訪れてみたいと強く思ったお寺でした。
追記:お金が貯まる三鈷の松があります。あやかりたいものです。