はじめに
早明浦ダムは「四国の水瓶」と言われており、全国4位の貯水量となっています。
一級河川の吉野川上流部に建設されました。
高速道路の大豊インターから30分ぐらいで行くことが出来ます。
山奥のダムというわけではなく、民家が近くにあり人々の生活の場所と割と近い印象があります。
スペック
独立行政法人水資源機構が管理しており、吉野川の治水や利水などの多目的な目的のあるダムとなっています。
重力式コンクリートダムで、高さは106mあり、近くで見るとその大きさに圧倒されます。
有効貯水容量は2億8,900万立方メートル、うち利水容量は1億7,300万立方メートルで、香川県にある1万5千ヶ所あるため池の総貯水容量に相当するそうです。
沿革
1949(昭和24)年に吉野川の治水を目的としてダム建設が立案されます。
1950(昭和25)年には灌漑用水の開発を目的とした利水も検討されるようになります。
1952(昭和27)年には電源開発が加わり、電力事業も促進しようということになります。
1967(昭和42)年に水資源開発公団が事業主体となって、本格的にダム事業に着手されることとなります。
1975(昭和50)年に完成しました。
反対運動
ダムによって水没対象となる大川村、本山町、土佐町ではダム完成によって何のメリットもないことから、大反対運動が展開されています。
特に大川村は村民大会で全会一致を持って絶対阻止を決議し、あえて想定水没地に大川村役場を新設することで抵抗の意志を示しました。
また、高知県も犠牲が大きいにも関わらずメリットが少ないため水資源公団と対立しています。
吉野川水系の漁業協同組合との補償交渉も難航しました。
昨今、大川村ではとても素敵な取り組みが行われています。
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「四国のいのち」
ダムの完成に際して、水資源開発公団は高知県知事溝渕氏に記念碑の揮毫(きごう)を依頼しました。
「四国はひとつ」と刻まれる予定でしたが、溝渕は「水は一つになったが、他のことはまだ一つになっていない」として「四国のいのち」にしたというエピソードが残されています。
おわりに
「四国はひとつ」とよく言われますが、水の問題はさまざまな分野に影響が及ぶため、簡単に解決できない問題であることを改めて気づかされました。
巨大なダムを建設するためには、建設自体を含めて計画段階での途方もない準備と多くの人々の理解や犠牲が伴っています。
その上で、ダムの利便性を享受していることを忘れないようにしないといけないと思いました。