愛媛県新居浜市の別子銅山
別子銅山は江戸時代の初めから住友家によって開発がすすめられ、1973(昭和48)年に閉山となるまでの280年間、採掘が続けられました。
最初は山頂から掘られていたのですが、次第に下へ移っていきます。
東平(とうなる)は標高750mの山中にあり、採鉱本部が1916(大正5)年から1930(昭和5)年まで置かれました。
最盛期には5000人の関係者や家族が暮らし、社宅・小学校・劇場・接待館が建てられて、大変な賑わいであったということです。
東平への道
2車線あってよく整備されている県道47号線から、脇道へ入っていきます。
脇道へ入ってから5,5Km先の山中に目指す「東平」があります。
この道は1車線しかなく対向車が来ると避けきれないことがある道路です。
所々に落石注意や待避場所まで何m・急カーブ多しといった看板が設置されています。
東平は産業遺産
くねくねとした山道を上った先に「東平」があります。
1968(昭和43)年に閉抗されてからの植林事業により、森の中に産業遺産が散らばっていますが、一部は「マイントピア別子・東平ゾーン」として整備されてきました。
広い駐車場から下に望んだところに、索道停車場跡や貯鉱庫跡が見えます。
下まで降りるには220段の階段を下りていきます。
この長い階段は、インクライン跡です。
インクラインとはケーブルカーのようなもので、下から上に生活物資などを運び上げる設備で、5000人の生活を支えていました。
下から見上げる遺蹟は迫力満点です。シロドウダンも色づいていました。
資料館
5000人が暮らす鉱山の町として賑わった東平の生活や銅山のことについての展示がされています。
学校や社宅・劇場・接待館が建てられ、劇場では歌舞伎も公演されたことがあるそうです。
小マンプ
短いトンネルを小マンプと呼んでいたそうです。
小マンプの中に東平にゆかりのある鉱山運搬機器を展示していました。
東平接待館跡
土井晩翠が1936(昭和11)年、ここを訪れ宿泊しています。
その時、記念に歌った歌です。
「東平の山ふところに石楠(シャクナゲ)の花ながめつつ鶯をきく」
紅葉
10月下旬になると、紅葉が色づいてきて綺麗になります。
紅葉を眺めながら、美味しい空気とさわやかな風が心地よくしてくれました。
おわりに
かつては5,000人もの大変な数の人々が、銅を採掘するために暮らしていた東平は、
人里離れた山の奥といった表現がぴったりの場所でした。
資料館では、ここに子供たちの歓声や人々の日常の営みがあったことを教えてくれます。
日本の近代化を支えた人たちのことを理解する大切な場所だと思いました。