はじめに
香川県観音寺市には山崎宗鑑(1465~1553)が晩年を過ごした一夜庵という草庵があります。
没するまでの26年間という長きにわたってこの庵に住んだとされ、俳諧を中心とした創作活動を行っていました。
興昌寺の一角にある一夜庵
一夜庵は山門から入って階段を上った小高い所にある興昌寺本堂の、さらに少し上がった所にひっそりと佇んでいる質素な作りの小さな建物です。
興昌寺は臨済宗東福寺派に属している禅寺です。
本堂横から、木々の間にある階段を上って行きます。
階段の途中の案内板
宗鑑の句碑
一夜庵へ上る階段の途中に句碑があります。
「 かし夜ぎの 袖をや霜に 橋姫御 」
一夜庵は、1528年に建築され、幾度かの修復はありますがほぼ原形をとどめています。
1984(昭和59)年には屋根の全面葺き替え工事が行われましたが、この時には宗鑑生誕の地である琵琶湖の葦が草津市市民の募金によって寄贈されています。
内部は6畳と4畳半の二間で、床の間もあります。
一夜庵の側にある塔
石碑「宗鑑法師之塔」
石碑自体はかなり風雨にさらされて朽ちていましたが、今でもお花が添えられて供養されていました。
大きい五輪塔
1775年、山崎宗鑑の200年忌に地元の俳人である小西帯河が中心となって建立しました。
「一夜庵」の名前の由来
「 上は立ち 中はひぐらし 下は夜まで 一夜泊りは下々の下の客 」
に、ちなんでいるとされています。
素直に読めば、泊り客は長居をして迷惑だと言っているようなものです。
しかし滑稽味のある俳諧を創作していた山崎宗鑑です。
わびしい山里での暮らしなので、案外、泊ってくれる客人の方がうれしかったのかもしれないと思うのですが、どうでしょう。
プロフィール
山崎宗鑑は1465年、現在の滋賀県草津市に生まれています。
本名は志那範重(通称は弥三郎)と言います。
9代将軍足利義尚(よしひさ)に仕えていましたが、義尚が陣没したため出家して宗鑑と改めました。
出家後は大阪府島本町山崎の地に「對月庵」を結び、これにちなんで山崎を姓とします。
建物は後世のものですが「宗鑑旧居跡」があり、「宗鑑井戸」があるそうです。
宗鑑は親交のある東福寺の僧、梅谷禅師が観音寺市にある興昌寺の住職になったのを機として、興昌寺山の中腹に庵を結びました。
これが一夜庵で1553年、89歳で没するまでの26年間をここで過ごしています。
俳諧の祖
「犬筑波集」の撰者で、庶民の世界感を面白く表現しており、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与え、俳諧の祖とされています。
また宗鑑は能書家としても知られており、宗鑑流と呼ばれる書体を確立して生活の糧としていたようです。
辞世の句
「 宗鑑はいづこへと人の問うならば ちとようありて あの世へといわん 」
「よう」というのは「用がある」というのと、「よう」という病気のできもののことで、これが原因で亡くなったと言われています。
2つの意味を語呂合わせしているようです。
おわりに
一夜庵は山里の木々の中に埋もれるようにありました。今から500年前は本当にわびしい所だったと思います。庵自体も6畳と4畳半の小さな部屋があるきりです。
しかし自然の美を生かし、簡素で風流な数寄屋風の趣ある建物です。
隣の興昌寺に山崎宗鑑を訪ねて、文人墨客が多く来遊したと言われていますので、宗鑑も田舎暮らしを楽しんでいたのではないでしょうか。