はじめに
JR予讃線の伊予小松駅からすぐのところで、国道11号線にも面しているお寺なので、車でも行きやすい所です。
他の札所のように、広い境内や多くの伽藍があるというわけではないのですが、小さくまとまったお寺という印象でした。
宝寿寺と四国八十八ヶ所霊場会
2015(平成27)年、霊場会が、宝寿寺住職に対して霊場の運営要領と未払い会費の支払いを求めて民事提訴しています。
2017(平成29)年、霊場会の請求が棄却されて、宝寿寺の退会が確定します。
霊場会は61番札所香園寺の駐車場に「62番礼拝所」を設けて納経所としました。
2019(令和元)年には宝寿寺が霊場会に再入会したので、「62番礼拝所」は閉鎖されました。
かつて、世俗的な対立があったようで、お遍路さんたちもどこにお参りすればよいのか困惑していた時期があったようです。
境内
入り口
本堂
大師堂
大師堂の内部
一宮稲荷
1877(明治10)年、寺の再興にあたり、京都の伏見稲荷・岡山の最上稲荷・愛知の豊川稲荷を護法神として迎えて建立しました。
十一面観音立像
1923(大正12)年に地元の人たちによって奉納されたものです。
目が垂れていて、優しそうな表情の観音様です。
縁起
聖武天皇の勅願によって大国主大神を白坪の里(現在の宝寿寺より1km離れた所)に祀られ、傍らに金剛宝寺が建立されました。
9世紀の初めに空海が本尊として光明皇后を模した十一面観世音菩薩像を刻みました。
空海が難産であった国司の妻のために祈祷をしたところ、無事に出産したので、以来、安産の観音様として信仰されるようになり、寺名も宝寿寺と改められました。
16世紀後半の天正年間に、豊臣秀吉の四国攻めによってお寺は荒廃してしまいます。
江戸時代、藩主の命により白坪の里にあった神社が宝寿寺の隣に移転されました。
明治時代、初期の廃仏毀釈によって、廃寺とされてしまいましたが、1877(明治10)年に再興されています。
創建以来、幾度か移転を余儀なくされていますが、1921(大正10)年の予讃線工事の際に現在の位置に移転してからは、落ち着いています。
おわりに
山門がなく境内への入り口に「一国一宮」の石柱が建っていたので、何故かな?と思ったのですが、お寺の縁起を知るうちに神社との深い関係があったことが分かりました。
世俗的なことでいろいろあったようですが、祈りの場所としては変わりがなく、お遍路さんたちがたくさんお参りに来ていました。