はじめに
室戸には3カ寺の札所があります。
東にある24番札所最御崎寺は「東寺(ひがしでら)」、西の26番札所金剛頂寺は「西寺(にしでら)」、真ん中の25番札所津照寺は「津寺(つでら)」と呼ばれています。
西寺と呼ばれている26番札所金剛頂寺は、道行く途中で眼下に太平洋を望むことができる標高200mの三角山の山中にあります。
昔は「金剛定寺」と言われていたようで、14世紀中期の南北朝時代に作成された『弘法大師行状絵詞』(重要文化財:東寺所蔵)の中に「金剛定寺」として登場します。
弘法大師ゆかりの歴史のあるお寺です。
境内
仁王門
駐車場から階段を上って行くと仁王門があります。
巨大なわらじの後ろに阿吽の仁王様が控えていました。
本堂
境内の正面に1982(昭和57)年に建てられた本堂があります。
本尊は薬師如来様で秘仏とされています。
大師堂
大師堂は本堂に背を向けて立っています。なぜ背を向けているのかが「弘法大師行状絵詞」に描かれています。
それによると、弘法大師の修行の邪魔をしていた魔物や天狗を、お大師様が足摺岬方面に追い払いました。
以来、大師堂は足摺岬に向けて建てられ、魔物や天狗を抑え込んでいるということです。
大師堂裏の三面のレリーフ
「弘法大師行状絵詞」にある3つの逸話が書かれてあります。
レリーフの前には空海による歌碑があります。
「法性の室戸といえどわがすめば 有為の波風よせぬ日ぞなき」
一粒万倍の釜
お寺が隆盛を極めていたころ、この釜でご飯を炊いたといわれています。
がん封じの椿霊木
ガンにならないように、としっかり願掛けしました。
五智如来石碑
1305年の刻印のある高知県で最古の石板塔婆です。
智光上人廟
空海の弟子で第二世住職となりました。空海が高野山にて入定したのを知り835年、この地で入滅しました。
うっそうとした高い木が茂っている中にある一筋の参道は、きれいに掃き清められていました。
弁財天堂
弘法大師が護摩を焚き、その灰で本尊の弁財天をつくったといわれています。
捕鯨八千頭精霊供養塔
捕鯨の盛んな室戸の地ならではの供養塔です。
金剛頂寺の縁起
寺伝によると、唐から帰朝した空海がこの地に立ち寄り、平城天皇の勅願によって本尊の薬師如来を刻み金剛定寺を創建したといわれています。
嵯峨天皇により「金剛頂寺」の勅額を賜ったことにより、寺名が金剛定寺から金剛頂寺に改められました。
10世までの住職は勅命により選任され、皇室との深い繋がりがうかがわれます。
鎌倉時代には無縁所として、体制から逃れた人々を受け入れて「西寺乞食(にしでらこつじ)」と呼ばれるようになります。
1479年の火災で多くの建物が罹災しましたが、長曾我部氏や山内氏の庇護によって復興しています。
1899(明治32)年、再び大火に見舞われてしまいますが再建され、今では多くのお遍路さんを迎え入れています。
不動堂
金剛頂寺を下った所に行当崎(ぎょうどさき)があります。
ここは空海が修行をした場所であり、それ以後も多くの僧がここで修行を行いました。
昔は行(ぎょう)にいくための道ということで行道崎といわれていたようです。
険しく切り立った崖になっており厳しい修行の場としてはもってこいのロケーションです。
岩の上から下をのぞくと、真下にごつごつとした岩場が広がり、足を滑らして落ちると命は無いような危険な場所でした。
行当崎には不動堂が建立されていて、大師作といわれる不動明王像が祀られています。
明治になるまでは金剛頂寺が女人禁制であったため、ここで納経していたので女人堂ともいわれています。
また波切不動としても室戸の漁師に信仰されています。
おわりに
室戸岬の海岸は何処も危険な岩場が連なっています。
空海が厳しい自然の中で修行を積み重ね、偉大な人物となって歴史に名前を残したことは四国の人間としては誇らしいことです。
空海の修行の場所を追体験でき、何とも言えない感慨深いものがありました。