はじめに
浜口雄幸は高知県出身で唯一の総理大臣です。その風貌から「ライオン宰相」とも言われています。
吉田茂も高知県ゆかりの総理大臣ということですが、吉田は高知県宿毛の出身である竹内綱の五男として東京で生まれ、3歳で福井藩士であった吉田健三の養子となっています。
吉田茂も高知県にゆかりはありますが、出身ということでは浜口雄幸ということです。
生い立ち
浜口は1871(明治3)年、高知市郊外の五台山に水口家の三男として生まれました。
寡黙でしたが学業は大変、優秀でした。
20歳の時、その雄幸を田野村の浜口家が養子に迎えたので、姓が水口から浜口に代わっています。
田野村は高知市から車で1時間半ほど東の室戸岬方面に行った所です。
高知市からは、かなり離れています。
政治家
東京帝国大学を卒業して大蔵省に入り、官僚として活躍しました。
44歳で官僚から政治家に転身し、1929(昭和4)年に内閣総理大臣に就任します。
折しも世界大恐慌や海軍軍縮問題などの難題に直面することになりました。
浜口内閣の政策に対する反発の中、東京駅にて凶弾に倒れて重傷を負ってしまいます。
翌年、容態が急変して亡くなってしまいました。
浜口雄幸旧邸
養子に迎えられた雄幸の家が、田野村の旧邸になります。
江戸時代の典型的な郷士屋敷のようです。
現在は浜口雄幸旧邸としてきちんと保存・整備されています。
農家が密集している、車1台がやっと通れる狭い道路を行った先に浜口旧邸がありました。
入り口には浜口雄幸の胸像と空谷(くうこく)の俳号で俳句を刻んだ石碑があります。
この句は東京駅で狙撃されて病床にあった時に詠んだものです。
「 なすことの いまだ終らず 春を待つ 」
入り口を入った所に、大きなソテツの木があります。
雄幸もこの木を見ながら過ごしていたのでしょう。
中庭に入ると縁側が見えます。天気が良ければ日向ぼっこに丁度良いですね。
室内には浜口雄幸の資料が展示されています。
青年時代の写真が飾られていました。
浜口の筆によると思われる人生訓が書かれたものが展示されていました。
「人生は込み合う汽車の切符を買うため大勢の人々と一緒に窓口に列を作って立っているようなものである。中々、自分の番がこない、時間がせまってきて気は急せり出す。隣の方が空いていそうに見えるので飛び出してみたくなる。しかし一度自分の列を離れたが最後、あちことと徘徊してみてもそこにはまだ順番がある。しまったと気が付いて元の列に立ち戻って来れば、自分の前に居た所は己に他人に占領されていて遥か後ろに廻らなければならない。結局急いだ為に却って後れることになる。」
隣の芝生は青いからと言って羨ましがったりせずに、自分の道を辛抱強く進んでいった方が良いということかと思います。
おわりに
浜口が田野町の浜口家に20歳で養子に入り、その後は東京帝国大学で学んだり官僚や政治家として活躍していたので、実際にこの地で生活したのは短かったのではないかと思います。
しかし、何といっても高知の出身ですから田野町にある浜口家が故郷であったのは間違いのないことでしょう。
地域の人たちも、そうした偉大な人物を誇りに思い、浜口家を大切に保存していると思います。