はじめに
有名な道後温泉のすぐ近くに、今は公園として広く松山市民に親しまれている湯築城跡があります。
中世の城跡なので立派な城郭があるというわけではなく、真ん中にある小高い丘を中心として、円形の内堀や外堀が掘られていることで、当時のお城の輪郭を知ることができます。
湯築城
湯築城は、中世に伊予国の守護であった河野氏が約250年間にわたって本拠としていた城です。
近世のお城に見られるような石垣や天守がなく、小高い丘を中心とした地形を利用した平山城です。
湯築城は江戸時代、松山藩の管理下に置かれていました。明治になってからは公園や植物園として、昭和時代には動物園として利用されていました。
1987(昭和62)年、動物園が移転したことを契機として発掘調査がおこなわれ、多種多様な遺物や遺構が発見されました。
2002(平成14)年には国史跡となり、日本100名城や日本の歴史公園100選にも選定されています。
入口
湯築城資料館
武家屋敷
中世の武家屋敷が復元されています。
入口
建物外観
河野氏
河野氏は源平合戦で源氏方として功績を挙げたことから、鎌倉幕府の有力御家人として伊予国の支配権を確立しました。一時、没落したこともありましたが、室町時代には足利将軍家と結びつき伊予国の守護として勢力をふるっています。
しかし、豊臣秀吉の四国攻めによって、小早川隆景に湯築城を明け渡し、ついに河野氏による伊予国支配が終焉を迎えました。
江戸時代になって、関ヶ原合戦での戦功が認められて入国した加藤嘉明が、松山城を築造し始めます。築城に際しては、湯築城の建材が流用されたようです。その後、加藤氏は会津に転封され、蒲生氏が入国しますが、嗣子がいなかったことから断絶となりました。
蒲生氏の後、伊勢桑名城主の松平定行が封じられ、以来、松山藩は松平氏14代にわたって世襲支配され明治時代に至っています。
外堀
道後公園
湯築城跡は道後公園として市民に開放されています。
いこいの広場
丘陵広場
丘陵頂上には展望台があり、そこからは松山市を一望できます。
おわりに
中世の城郭湯築城は、現在は道後公園として整備され、市民の憩いの場として多くの人に利用されています。晴れた天気の良い日には、家族連れが多く訪れていて、子供たちが元気に走り回っていました。
街の中心部に、こうした歴史のある地区が保存され、人々の生活の中に溶け込んでいることは、地域の宝ともいえるのではないでしょうか。これからも大切に保存していってほしいものです。