定年後の生活ブログ

定年後に行政書士となり、四国のことを発信しています

高知城

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はじめに

江戸時代以前に建造された天守を「現存天守」といい、全国には、国宝の天守のある城が5城、重要文化財の天守のある城が7城の計12城あります。

残念ながら四国には国宝の城はありませんが、重要文化財の城が4城あります。

高知城はそのうちの一つで、別名「鷹城」と呼ばれており、高知のシンボルとして大切に保存され、親しまれています。

高知城内

城内図

追手門

本丸へ

二ノ丸から本丸への入口

詰門(橋廊下)

二ノ丸と本丸をつなぐ渡り廊下となっています。

2Fの廊下は、下臣たちの控え場所でした。

本丸

本丸御殿(懐徳館)と天守

本丸御殿

3層6階建ての天守だけでなく、本丸御殿も残されています。

「現存天守」のある12城で本丸御殿があるのは高知城だけです。

玄関

上段の間

天守

天守には高知城のジオラマ模型が展示されています。

最上階

「落書き・喫煙・昼寝を禁ず」とあります。

確かに、吹く風が心地よくて、絶好の昼寝場所でした。

天守からの眺望

高知城の天守からは、高知の四方を遥かに見渡すことができます。

南方面

屋根の向こうに高知県庁の建物があります。

東方面

北西方面

黒鉄門

本丸の裏門にあたるのが黒鉄門(くろがねもん)で、いざというときに開けられる門でした。

天守にある「忍び返し」

天守には現存する物として唯一の忍び返しがあります。

忍び返しとは、盗賊や敵の侵入を防ぐために並べられた剣で作られた仕掛けのことです。

高知城とは

初代土佐藩主の山内一豊と妻千代が礎を築いた典型的な平山城です。

南北朝時代より「大高坂城」といわれる簡素な城があり、一時は長曾我部元親も居城としていました。

関ヶ原の戦の後、徳川家康から土佐一国を与えられた山内一豊が,1601年から築城を始め10年余りの月日をかけて整備しています。

1727年、城下町からの大火によってほとんどの建物が焼失してしまいます。

火災の2年後から再建工事が始まり、1753年にようやく再建されています。現存している天守はこの時のものです。

1873(明治6)年の廃城令によって、天守を含めた本丸と追手門を残して取り壊されてしまい、高知公園となりました。

1945(昭和20)年7月の高知大空襲の危機をも乗り越えて、現在に至っています。

高知の由来

長宗我部元親も一時期、高知城がある大高坂山を居城にしようとしましたが、3年ほどであきらめています。

高知城の北側を流れる江ノ口川や南側を流れる鏡川が氾濫し、城下町造りに失敗したことが原因です。

山内一豊は大高坂山を「河中山」(こうちやま)と改名しましたが、相変わらず水害に悩まされ、「河の中」という地名が問題であるといわれるようになります。

そのため2代目土佐藩主の山内忠義(やまうち ただよし)が「高智山」と再改名し、いつしか高知といわれるようになりました。

高知城の銅像

初代土佐藩主「山内一豊」

尾張国(現在の愛知県)で生まれた山内一豊は、豊臣秀吉のもとで数々の功績を打ち立てていましたが、関ヶ原の戦いで徳川家康側に与したことで土佐一国を与えられました。

はじめ浦戸城に入城し、1603年、築城中の高知城に移っています。

しかし、その2年後に山内一豊は土佐で生涯を閉じました。

山内一豊の妻「千代」

山内一豊は、織田信長の家臣だった豊臣秀吉に仕えていた時に千代と結婚しました。山内一豊が藩主になれたのは、千代の「内助の功」があったからだとされています。

織田信長が京都で大規模な馬ぞろえ(軍事演習のようなもの)を開催した時に、千代のへそくりで購入した駿馬が信長の目に留まり、歓心を得られました。

妻のおかげで権力者の目に留まり、さらに出世をすることができたということです。

千代の横にいる馬は、このとき購入した馬です。

板垣退助

自由民権運動の中心人物として名高い板垣退助の銅像です。

おわりに

現存天守として貴重な歴史的価値のあるお城です。

天守からの眺めも抜群で、かつては藩主しか見ることのできなかった眺望を堪能することができました。

追記:本丸御殿に、山内一豊と妻千代の豪華な装飾がありました。