定年後の生活ブログ

定年後に行政書士となり、四国のことを発信しています

土佐清水市のJOHN MUNG MUSEUM(ジョン万次郎資料館)

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はじめに

足摺岬近くの小さな漁村に生まれた万次郎は、数奇な運命をたどり、幕末から明治にかけて日本とアメリカの懸け橋として活躍した人物です。

地元の土佐清水市には、万次郎の足跡を顕彰した資料館があり、人気の観光スポットになっていました。

館長は「ビビる大木」さん

埼玉県春日部市出身のビビる大木さんですが、縁あってジョン万次郎資料館の館長になっています。

ジョン万次郎資料館

2006(平成18)年、海の駅あしずり構内にオープンしました。

ジョン万次郎とは

遭難

土佐清水市の中浜の漁師であった万次郎は、1841年、14歳の時に嵐に会って遭難し、無人島の鳥島に漂着してしまいました。

島生活143日目に、やっとアメリカ捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられます。

船長のホイットフィールドは、聡明な万次郎をアメリカへ連れて行きました。

この時、万次郎に船名にちなんだジョン・マンという愛称がつけられています。

アメリカでの生活

マサチューセッツ州フェアヘーブンで、万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、学校で多くのことを学ばせてもらいました。

卒業後、帰国を決意した万次郎は、資金を得るためにゴールドラッシュのカリフォルニアで資金を貯めます。

ジーンズとゴールドラッシュの展示

日本への帰国

1851年、万次郎は仲間と共に薩摩藩支配下の琉球(現:沖縄県)に上陸しました。

万次郎たちは、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けた後、約2年後にやっと土佐へ帰ることができたのです。

土佐藩で

土佐藩では「漂客談奇」という公式記録が編纂されました。

万次郎は高知城下の藩校の教授となり、後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受けたといわれています。

万次郎大航海図

幕府に招かれる

万次郎は幕府に招かれて江戸へ向かい、故郷の中浜を姓として中濱万次郎を名乗るようになりました。

1860年、万次郎は咸臨丸に乗り込みアメリカに向かいます。咸臨丸には、艦長の勝海舟や福沢諭吉らも乗っていました。

咸臨丸模型

明治時代

明治になっても、万次郎はその知識を生かして、重用されます。

1870(明治3)年、普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣されるのですが、ニューヨークに滞在したときに、万次郎は恩人であるホイットフィールド船長に再会を果たしています。

帰国後、病に倒れてしまった万次郎は静かに暮らしています。

1898(明治31)年、71歳で万次郎はその波乱万丈の生涯を閉じました。

万次郎関係者との記録

おわりに

数奇な運命の万次郎ですが、逆境にあっても常に前向きに人生を切り開いてきました。幕末維新の時代に己の知識や経験を社会のために尽くした人物でもあります。

高知の生んだ偉大な人物として、もっと多くの人々に知ってもらいたいものです。

追記:少年万次郎像

広い駐車場の一角に、少年時代の万次郎とその仲間の力強い像がありました。