はじめに
清らかな清流の四万十川の下流域に四万十市の街並みがあります。
かつて中村と言っていたこの地は、古くは九条兼実に連なる一条家が統治していましたが、長曾我部元親によって滅ぼされました。
その後、山内一豊が土佐に入封すると、弟の山内康豊を中村城に置いて3万石が与えられましたが、やがて所領は土佐藩に返還されています。
中村城は一国一城令によって廃城になりましたが、二の丸跡に模擬天守の四万十市立郷土資料館が建設されました。
①四万十市立郷土資料館
四万十川とその支流の後川に挟まれた小高い丘の上に四万十市郷土博物館があります。
かつての中村城一帯は、現在、為松公園となっており、城の二の丸跡に博物館が建てられました。
博物館は立派な天守の姿をしており愛知県の犬山城をモデルにして造られたそうです。
外観
館内展示
館内には、土佐中村の歴史、文化、人物に係わる貴重な資料が展示されています。
最上階の展望台
最上階は展望台となっており、四万十川や市街地を一望することができます。
②幸徳秋水のお墓
四万十市中村に生まれた幸徳秋水は、本名を伝次郎といい、子どものころから神童といわれる程だったそうです。16歳で上京し、中江兆民に師事しながらジャーナリストとして活躍しました。
日露戦争前には日露開戦論に対して内村鑑三らとともに『平民新聞』を創刊して非戦論を唱えています。
1910(明治43)年、明治天皇暗殺を企てたとして全国の社会主義者や無政府主義者が逮捕・起訴された政治的弾圧・冤罪事件である大逆事件がおこりました。
幸徳秋水は首謀者とされて死刑に処されています。
幸徳秋水の墓
幸徳秋水の案内掲示板
現在、四万十市は幸徳秋水の名誉を回復し、命日には墓前祭が執り行われています。
幸徳秋水、非戦の碑「平民新聞」より
おわりに
非業の死を遂げた幸徳秋水を郷土の偉人として顕彰するとともに、郷土の歴史や文化を大切に保存展示する立派なお城を見ることができました。
四万十市の人々の故郷に対する熱い思いを感じることができたと思いました。