はじめに
坂本龍馬と共に幕末に活躍した中岡慎太郎は、山深い土佐の北川村で生まれました。
この地に彼の生家が復元されているだけでなく、「中岡慎太郎館」が設けられ、その歴史的な足跡が顕彰されています。
生家にある肖像
中岡慎太郎館
展示については、残念ながら写真撮影がNGでした。
外観
エントランス
中岡慎太郎の生家
中岡慎太郎碑
1928(昭和3)年、中岡慎太郎の死後に陸援隊を率いた田中光顕がこの石碑を訪れて祭文を読んでいます。
中岡慎太郎の遺髪墓
中岡家一族の墓所の一角に遺髪を納めた墓がありました。
中岡慎太郎とは
1838年、北川郷の大庄屋の長男として誕生し、将来の跡取りとして勉学に励みました。
やがて大庄屋見習いとなり、農民のために奔走しています。
しかし時は幕末激動の時代の中であったため、慎太郎も土佐勤王党に参加し、尊王攘夷派の志士として活動します。
前藩主山内容堂によって土佐勤王党が弾圧を受けると、身の危険を察知した慎太郎は土佐藩を脱藩して長州藩に身を寄せました。
長州藩が京都での勢力挽回を図った禁門の変に参戦しましたが、足を負傷しています。
その後の四国艦隊下関砲撃事件で攘夷が無謀であることを悟り、開国・富国強兵論に転じました。
禁門の変以降、朝敵とされた長州藩の救援と、雄藩連合による国家の再建を実現するため、薩長同盟の実現を目指して坂本龍馬らと共に活動します。
慎太郎は大政奉還を主張していましたが、同時に、武力倒幕の準備を進めており、在京の浪士を集めて陸援隊を組織しました。
中岡慎太郎館の前にある慎太郎像
中岡の仲介により、土佐藩の板垣退助・谷干城と薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀らが会談し、薩土討幕の密約が締結されました。
鳥羽・伏見の戦いの際に、山内容堂は土佐藩の参戦を制止しますが、土佐藩兵は密約に基づいて戦闘に参加し、新政府軍として戊辰戦争を戦います。
明治時代に藩閥として土佐が重きを置くことになったのは、中岡慎太郎の活躍があったからこそと言えます。
中岡自身は大政奉還後の1867年11月15日夜、京都河原町の近江屋で坂本龍馬といたところを襲撃され死去(享年30歳)したために、新しい明治の時代を見ることなく、この世を去ってしまいました。
室戸岬にある中岡慎太郎像
土佐の志士、坂本龍馬像は桂浜にありますが、盟友であった中岡慎太郎の像は室戸岬に建立されています。
おわりに
中岡慎太郎館では、地元の人々から今なお顕彰されている幕末の偉人としての人となりを知ることができました。
彼は、もし暗殺されることなく明治時代を生き抜いていたならば、どんなにか歴史に名を残していただろうかと思えるほどの人物だと思います。
高知を出奔して暗殺されるまで、故郷へ帰ることはなかったようですが、慎太郎がかつて見ていた風景と変わることのない同じ景観を眺めていると感慨深いものがありました。
追記:中岡家慎太郎食堂
慎太郎が見ていた山なみを眺めながら、ランチをいただくことができます。