はじめに
麓から山の中腹にあるお寺が見えています。
山に近づき上りの道にさしかかると、車が1台やっと通れるぐらいの道幅の狭い道、それも急勾配で、きついヘアピンカーブのある道を上がっていかなければなりません。
対向車が無いことを願いつつ、上がっていった先にお寺はありました。
お寺からは麓の街並みだけでなく、遠く太平洋を望むことができます。
境内
仁王門・大師堂・本堂・厄除け薬師如来像・瀧
山門
階段を降りていった先に仁王門があります。天井には八方にらみの龍が描かれていました。
大師堂と本堂
本尊は薬師如来さまです。
厄除け薬師如来像
高さが約9メートルの薬師如来像の足元では胎内巡りが出来るのですが、残念ながらコロナの影響で閉まっていました。
瀧
本堂の隣の斜面に小さな滝があります。かつては奥の院を水源にしていたようですが、現在は人口の瀧だそうです。
お地蔵さま
小さい池の中に、お地蔵さまが鎮座していました。
何故か消防車
縁起
寺伝によると、723年、行基が薬師如来を彫って祀ったことが始まりとされています。
8世紀初めに、空海が五穀豊穣を祈願して修法を行い、金剛杖で壇をつくと清水が湧い
て、鏡のような池が出来たといわれています。
それで院号が「鏡池院」、寺名が「清瀧寺」とされました。
平城天皇の第3皇子である高岳親王は、薬子の乱に連座したことから空海の弟子として
仏門に入り真如を名乗ります。
弘法大師の十大弟子の一人とされています。
年を取ってから仏法を求めて唐に渡り、更に海路、天竺(インド)を目指しましたが、
消息不明になってしまった僧です。
真如(高岳親王)は861年にこの地を訪れ、逆修塔(生前墓のこと)を建立しましたが、現在は「不入の山」とされていて入山禁止です。
江戸時代には土佐藩主山内家の庇護により、たいそう繁栄したようですが、明治になっ
て廃仏毀釈により廃寺となってしまいます。
再興されたのは1880(明治13)年です。
琴平神社
境内には県の有形文化財に指定されている琴平神社があります。
1668年に本堂が全焼したとき、防火や寺の発展を祈願して金比羅が勧進されたのが起源とされています。
現存の社殿には1831年と書かれた棟札があるので、この年に建てられたと考えられています。
おわりに
車の難所といわれている清瀧寺への道は、狭くて急な山道でした。
何とか無事にたどり着いたのですが、運転には十分に注意が必要です。
それでもお寺の境内は眺めも良くて、清らかな水が滝のように流れるといった、お寺の
名前通りのすがすがしい雰囲気の場所でした。