はじめに
54番札所延命寺から59番札所国分寺まで5カ寺の札所が、今治市に集中しています。
松山市の53番札所円明寺からは30km近く離れた所にあるのが延命寺です。
歩きのお遍路さんにとっては、長い道のりだと思います。
たどり着いた延命寺は、穏やかにやさしく迎え入れてくれる雰囲気のあるお寺でした。
境内
仁王門・鐘楼・中門・本堂・不動尊・大師堂・越智孫兵衛・真念法師
仁王門
鐘楼
1704年に鋳造されています。「近見次郎」と称し、今治市指定の文化財です。
太平洋戦争中に供出を命じられましたが、越智態太郎氏の尽力により免れました。
中門
もとは今治城の門の一つであったようです。
本堂
本尊は60年に一度、開帳される秘仏の宝冠不動明王坐像で、2016年に開帳されました。
火災の難から逃れているので火伏不動尊ともいわれています。
不動尊
宝冠をかぶった珍しい不動明王です。不動明王様は力強くて迫力満点です。
大師堂
庄屋越智孫兵衛の墓
享保年間の飢饉から農民を救い、享保の大飢饉でも餓死者を出さなかったと伝えられています。
今でも、毎年8月7日には感謝の慰霊祭が行われているようです。
真念法師の道標
江戸時代に真念法師は二十回以上、巡礼されており、お遍路さんのために道標、善根宿、巡礼記などの事業をしています。
延命寺の道標は24基建立されたものの一つです。
縁起
720年、聖武天皇の勅願によって行基が大日如来の化身とされる不動明王像を彫って、近見山の頂上に祀ったことが始まりとされています。
9世紀初めに、嵯峨天皇の勅命で空海が圓明寺と名付けて再興しました。
鎌倉時代には学問・信仰の中心として繁栄し、伊予国出身で東大寺の学僧であった凝然が、日本仏教史研究に不可欠の文献といわれる『八宗綱要』を著しています。
その後、再三の火災に見舞われてしまったので、江戸時代の中期には現在地に境内が移されました。
この時にツブラジイ(一般にシイノキといわれる常緑広葉樹)が植えられたといわれています。
明治になって53番札所の圓明寺とよく間違われるので、江戸時代からの俗称である延命寺を称するようになりました。
ツブラジイ
高さ20mもある巨大なツブラジイの木あり、今治市指定の保存樹となっています。
斎藤道三が整備し、織田信長が拠点を構えた岐阜城は金華山の山頂にあります。
ツブラジイの花が西日に照らされて山を黄金色に染めたことから「金華山」といわれるようになったとされています。
延命寺のツブラジイも花が咲くと黄金色に見えるのでしょうね。
おわりに
何の変哲もないお寺のように見えたのですが、人々の難を救った越智孫兵衛を手厚く祀っているように、地元の人々の思いや願いを大切にしているお寺でした。