定年後の生活ブログ

定年後に行政書士となり、四国のことを発信しています

西行が昼寝をした72番札所の曼荼羅寺

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はじめに

古来より四国霊場の71番から77番までの札所7ヶ寺を1日で巡礼する『七ヶ所まいり』という参拝方法があります。

善通寺で生まれた空海ゆかりの地を巡礼した事が始まりだといわれており、江戸時代の案内記などでも勧められているそうです。

コロナの影響を受けているこの頃、7カ寺は参拝者の癒しになればということから「花ごよみ」と称して、手水舎をお花で飾るイベントを行っています。

花手水について詳しくは、こちらをご覧ください。↓↓↓ 

www.teinenoyaji.com

 

曼荼羅寺でもきれいなお花が飾られていました。

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境内

仁王門

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本堂

本尊は大日如来さまです。

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山門を入ってすぐの参道横に、旧本堂の巨大な棟瓦が残されています。

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大師堂 

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観音堂

平安時代後期の作とされる県指定有形文化財の聖観音立像が安置されています。

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「不老の松」跡

空海の手植えとされた「笠松(不老松)」がここにありました。

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笠松大師

笠松と呼ばれていた「不老松」の幹で、弘法大師さまの坐像を刻み祀っているので笠松大師といわれています。

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西行とのゆかり

西行とは

新古今和歌集に94首が掲載されている平安末期に活躍した歌人(1118~1190)です。

俗名を藤原義清(ふじわらのりきよ)といい、名門の武家に生まれますが、23歳で突如、出家してしまいます。

出家後は全国を放浪しながら多くの歌を残しており、江戸時代の松尾芭蕉にも影響を与えたとされています。

西行の暮らした庵

西行は50歳のころ、崇徳上皇の鎮魂と空海ゆかりの地を訪ねるために四国を旅しますが、その際、曼荼羅寺近くにある「水茎の丘」に庵を建てて何年か過ごしています。

西行の800年忌となる平成元年、地元有志によって再建されました。

庵の前にある苔むした小さな石橋は、当時のままのものでしょうか。

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境内にある「西行の昼寝石」 

西行は庵から曼荼羅寺によく通っており、寺では「西行の昼寝石」と呼ばれるこの石の上で昼寝をしていたそうです。

桜の木陰になっていて、ベンチのように気持ちよく昼寝をすることのできる石です。

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桜の木の下にある「西行の昼寝石」

 

縁起

四国霊場八十八ヶ所の中で最も古い、596年に佐伯家の氏寺として創建されたといわれています。初めは「世坂寺(よさかでら)」と称していました。

空海が唐から帰朝した翌年に、母親である玉依御前の菩提を祈るために寺を訪れました。

唐の青龍寺にならった伽藍を建立して、本尊に大日如来を祀り、さらに唐から持ち帰った曼荼羅を安置して寺名を「曼荼羅寺」に改めました。

四国霊場の古い案内書には、樹齢1200年を超す弘法大師お手植えの「不老松」の存在も紹介されていましたが、残念ながら松食い虫に浸食されたため2002(平成14)年に伐採されてしまいました。

鎌倉時代には、後堀河天皇から寺領を給わるほど栄えましたが、1560年に阿波の三好氏による兵火で焼亡してしまいました。その後も戦災の被害に遭っていますが、復興しています。

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おわりに

讃岐の風景の中に当たり前のように馴染んで存在しているかのようなお寺です。

1400年も前に創建されたといわれていますので、もうそれだけで讃岐の地の一部となっているのでしょう。

特に華やかな伽藍というわけではないのですが、多くの由来や歴史的事績のある味わい深いお寺でした。