はじめに
梅の花が満開の時期(2月27日)に、参拝してきました。
境内のあちこちで、満開の梅の花を見ることができ、春が近づいていることを実感します。
その昔、菅原道真が讃岐の国司として赴任してきました。
香川県のほぼ中央に位置する風光明媚な綾川町にある綾川のほとりで数年間暮らしています。
現在は、滝宮天満宮の近くを高松から琴平へ向かう4車線の立派な道路が通じており、巨大なイオンのショッピングモールがそびえ立っています。
道真公がこの景色を見たならば、さぞかし驚くことでしょう。
拝殿には、眼光鋭い武人のような道真公の絵馬が奉納されていました。
学問の人という人物像の、私の勝手なイメージとはちょっと離れていました。
境内
参門
梅園
太宰府天満宮から分けられた「飛び梅」が、そこかしこに植えられています。
神殿へ
神殿
学問の神様・菅原道真公だけでなく、相撲の神様・野見宿禰命(のみのすくねのみこと)が御祭神として祀られているようです。
1873(明治6)年 、 讃州竹槍騒動により全焼しましたが、1888(明治21)年に再建されました。
梅花祭
道真公の命日である2月25日にあわせて、毎年、その日に近い日曜日に行われているそうです。
相撲場
垂仁天皇の御代に、出雲の国より召されて大和国に住した相撲巧者の野見宿禰命は、埴輪を作って殉死に代えることを奏したことから、土師臣(はじのおみ)の姓を賜りました。
土師臣の居地が大和国菅原邑であったことから菅原氏と改めたとされています。
菅原氏の祖先のゆかりにちなんで、相撲の神様野見宿禰命が御祭神として祀られていることから、毎年、相撲が奉納されています。
恋松天神
道真公の世話をしていた女性と恋に落ちました。
天満宮の隣を流れる綾川を二人が歩いていた時、衣をかけた松の木は「恋の袖かけ松」といわれていました。
恋松天神に絵馬をかけると縁結びの願いが叶うとされています。
なで鷽鳥
一年間の悪い出来事をすべて鷽鳥(うそどり)が「嘘」に替えて、良いことに替えてしまいます。
願かけなで牛
七福神
子守社
子供を災いから守る魔よけ獅子頭が祀られています。
菅原道真とは
学問の神様として太宰府天満宮や北野天満宮に祀られている、誰もが知っている超有名な人物です。
845年、学者の家系に生まれた道真は9世紀後半の平安時代前期に活躍した貴族・学者・政治家です。
幼少より学才に優れており、長じて朝廷における文人社会の中心となりました。
886年、道真公が42歳のときに讃岐の国司に任ぜられましたが、本人は『「左遷である」といわれていることが残念である』と言っていたようで、複雑な心境だったようです。
讃岐国に来任して滝宮の官舎に住みますが、現在の神社境内地はその官舎跡だと伝えられています。
888年に讃岐国が旱魃に見舞われた時、道真公は7日間の断食をして祈祷をしたところ雨が降り、喜んだ人々が踊ったことが念仏踊りの始まりとされています。
以来、滝宮の念仏踊りは1000年以上踊り続けられ、国の重要無形民俗文化財に指定されました。
任を終えて帰郷した道真は、宇多天皇に重用され、醍醐天皇の時には右大臣にまで上り詰めました。
しかし謀反を計画(昌泰の変という)したとして、大宰府へ左遷されてしまい59歳で没します。
死後、道真の怨霊によって相次いで左遷に関係した人物が亡くなったとされます。
930年には宮中の清涼殿が落雷を受けて朝廷の要人に多くの死傷者が出てしまい、さらに醍醐天皇も3ヶ月後に崩御します。
一連の出来事は道真の怨霊が原因とされたため、霊を鎮めるために北野社において神として祀られるようになりました。
没後の菅原道真を神格化した呼称の天満天神として信仰の対象となり、現在は学問の神としても親しまれています。
おわりに
多くの人が学業成就祈願に訪れている学問の神様が、讃岐の地に深いゆかりのあることを知ることができました。
菅原道真公を祀っている社は各地にありますが、讃岐の国司として赴任し、実際にこの地で何年かを過ごしたことは、讃岐との強い縁を感じます。
地元女性とのロマンス話が残されていたりして、神さまになった道真公ではありますが、人間らしい一面を見ることができて親近感を覚えました。
追記:手水舎にきれいなお花が飾られていました。