はじめに
松山市の郊外にある53番札所は円明寺、えんみょうじと読みます。
昔ながらの住宅が立ち並ぶ中に、普通のお寺のたたずまいで、こぢんまりと存在しています。
道を挟んで駐車場からすぐに境内となっており、気軽に参拝できるお寺です。
境内
山門
お正月らしく、しめ縄が飾りつけられていました。
仁王さまのお腹が太鼓腹気味だったので、ちょっと親近感がわきました。
楼門
山門と本堂のちょうど中間にあります。
本堂
本尊は行基作といわれる阿弥陀如来さまです。
本堂内部に入って右上の鴨居には左甚五郎作の龍があります。
大師堂
観音堂
慶長5年の銘がある十一面観音像が安置されています。慶長5年は1600年で、関ヶ原の戦いがあった年です。
子育て水子地藏尊と文殊堂
不動明王像と弁財天
新四国大師堂と閻魔堂
キリシタン石塔
高さ40cmほどの十字架形の灯籠で、マリア像のようなものが刻まれています。
江戸時代にキリスト教は禁止されていたのですが、お寺では隠れキリシタンの礼拝を黙認していたともいわれています。
銅板の納め札
大正時代にアメリカ人のシカゴ大学スタール博士が銅製の納め札を発見しました。
この納め札には慶安3年(1650年)と書かれており、「遍路」の文字が残されている最古の納札ということです。
江戸時代の初めにはお遍路さんがいたことを示す貴重な史料です。
縁起
8世紀前半、聖武天皇の勅願によって行基が阿弥陀如来を刻んで祀ったのが始まりだとされています。
当時は少し北へ向かった和気浜の西山という海岸にあり、圓明密寺と称していました。
弘法大師がこの地を訪れた時、荒廃した寺を整備して札所に再興します。
鎌倉時代には度重なる兵火によって衰えてしまいましたが、江戸時代の初めに土地の豪族須賀専斎重久がその私財をもって現在の地に移し再興したものといわれています。
その功労により1636年、京都仁和寺の覚深法親王の令旨により末寺とされて現在の円明寺となりました。
おわりに
禁止されていたキリスト教信仰の遺物とか、最古の納め札とかといった歴史的な遺産が残されているお寺は珍しいのではないでしょうか。
これだけでなく様々な神様や仏様が祀られていて、地元の人々に寄り添っている感じを受けました。
古い町の中にあるお寺は、地域の人々の様々な祈願を受け入れる大きなやさしさと度量を持つお寺として、古よりそこに存在していると思いました。