寶厳寺(ほうごんじ)の縁起
時宗の開創者である「一遍上人」はこの寺で誕生したとされています。
寺伝では斉明天皇の勅願により665年に創建されたといいます。
1292年、一遍の弟の仙阿によって復興されました。
1334年に得能通綱が寺の入り口に「一遍上人御誕生旧跡」の碑を建立しました。
2013年にお寺は火災によって全焼してしまい、重要文化財であった「一遍上人立像」も焼失してしまいました。
現在は、一遍上人堂が建立されており、内部はミニ美術館となっていて、レプリカの一遍上人像や一遍聖絵が展示されています。
本堂も建て直され、新造の阿弥陀三尊像が安置されています。
お寺は道後温泉本館の横の道をだらだらと上っていた所にあり、参道にはかつて遊郭が立ち並んでいました。
正岡子規は1890(明治28)年に寺を訪れて、次の句を詠んでいます。
「色里や十歩はなれて秋の風」
一遍上人とは
1239年、伊予の豪族河野氏一門の子として生まれます。
10歳で母を亡くし、13歳で九州の聖達上人の下で修行します。のちに熊野権現の啓示を受けて悟りを開き、時宗を起こしました。
一遍の布教活動の特徴は「賦算(ふさん)」と「踊り念仏」にあります。
「賦算」とは「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と書いてある算(ふだ)を賦(くば)り結縁するという意味です。
念仏札を一遍は多くの人々に配り歩きました。
「踊り念仏」は信濃の国で信仰への嬉しさのあまりに、信者と一緒に踊りだしたのが始まりだとされています。
1289年、兵庫の観音堂(現・真光寺)で51歳で亡くなりました。
一遍の生涯は、ひたすら全国を遊行し、念仏札を人々に配り続けたものでした。
「捨聖(すてひじり)」「遊行上人」とも言われているように、生涯を民衆と共に念仏信仰に捧げた人物です。
ひみつジャナイ基地
2020(令和)年に訪れた時、寶厳寺の真ん前には「ひみつジャナイ基地」がありました。
何か面白そうな建物です。
道後温泉が東京藝術大学の日比野克彦氏とコラボして、道後温泉一帯を盛り上げていこうというプロジェクトで作られました。
地域の情報発信や人々の交流を深めるための拠点です。
ギャラリーは無料で貸し出されています。
障害のある方の作品や段ボールのカードに絵を描いたもの(「ひみつのジャイナカード」といいます)が吊り下げられていました。
最後に
寶厳寺は歴史あるお寺ですが、残念ながら焼失してしまいました。それでも人々の強い思いによって新しい堂宇が建立されています。
やはり、一遍上人誕生の地であるということが特別な意味を有しているのではないでしょうか。
道後温泉を盛り上げるためにお寺の近くにアートの拠点を作るなど、地域にとっても大切なお寺であると思いました。