はじめに
12番札所焼山寺のある神山町は、光ファイバーを用いた高速通信網を整備しており、IT企業や大学などがサテライトオフィスを設置しています。
時代の最先端を進んでいる、先進的なIT事業が展開されていることなど全く感じることのできない、のどかな山村風景が広がっています。
幹線道路を少し入った所から、傾斜のきつい山道を進んで行った山上に、古刹である焼山寺がありました。
焼山寺山の標高705m付近に境内があり、四国八十八カ所霊場では2or3番目の高さということです。
四国山地の山深い所にあり、「遍路ころがし」と呼ばれる難所としても知られています。
境内
参道
駐車場から山門までの約500mある参道沿いにさまざまな石像が建立されています。
山門
山門から本堂へ
杉の巨木は樹齢数百年といわれています。
三面大黒天堂・本堂・大師堂
三面大黒天堂には大黒天像、毘沙門天像、弁財天像が安置されています。
本堂の本尊は虚空蔵菩薩です。
石塔と鐘楼
本堂前の広場に石塔が建立されており、その向こうには鐘楼があります。
1649年に蜂須賀家より寄進された梵鐘は県文化財に指定され、別に保存されています。現在の梵鐘は2代目です。
縁起
寺伝によれば8世紀初めに、役小角(えんのおづぬ)が蔵王権現を祀ったのが始まりとされています。
山には神通力を持った大蛇が棲んでおり、しばしば火を吐いて農作物や村人たちを襲っていました。
空海(弘法大師)は大蛇の退治に向かいましたが、大蛇は全山に火を放って妨害したので摩盧(水輪の意)の印を結び真言を唱えながら進むと、大蛇は山頂近くの岩窟で姿をあらわしました。
大師が一心に祈願したので、虚空蔵菩薩の加護により大蛇を岩窟に封じ込めることができました。被害を受けていた人々の大衆安楽、五穀豊穣を祈願して、三面大黒天を彫って安置し、山が「焼山」となってしまったので「焼山寺」と名付けたということです。
鎌倉時代末には後醍醐天皇の勅願所となっており、江戸時代には徳島藩主蜂須賀家の帰依を受けていました。
杖杉庵(じょうしんあん)は「衛門三郎」終焉の地
最初に四国八十八箇所を巡ったとされる衛門三郎の終焉の地とされる場所です。
伝説によれば、平安時代前期、伊予国河野家の人であった衛門三郎は、弘法大師に行った非礼を詫びるために巡礼に出ました。
21回目に逆回りを行っている途中、この地で病に倒れたところに弘法大師が現れ、衛門三郎は自身の非礼を詫びることができました。
大師が来世に何か望みがあるかと訊くと、生まれ変われるなら河野家に生まれたいと望んで息を引き取ります。
大師は石に「衛門三郎再来」と書いて左の手に握らせました。
すると伊予国領主の河野氏に生まれた長男が「衛門三郎」と書いた石を握っていたということです。
石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改められました。
石手寺
石手寺について詳しくは、こちらをご覧ください。↓↓↓
おわりに
「遍路ころがし」といわれる厳しい山道を上ったところに、山岳霊場のたたずまいのある札所の焼山寺があります。
今でこそ車で行くことができますが、歩いて上ることは本当にきついのではないでしょうか。そのような山上のお寺は心が洗われるような静寂の中に存在していおり、森厳とした雰囲気を醸し出していました。
平地にあるお寺とは一味違った趣のあるお寺です。