「花めぐり」の写真を追加しました。
はじめに
72番札所の曼荼羅寺から少し上がった所に、73番札所の出釈迦寺(しゅっしゃかじ)があります。
2つの札所はお隣同士といっていいほどの近さです。
どちらも標高481mの我拝師山(がはいしやま)の麓にありますが、出釈迦寺は山頂近くに空海ゆかりの奥の院があります。
我拝師山頂にある奥の院「捨身ヶ嶽禅定」の釈迦如来像
「花めぐり」の花手水
古来より四国霊場の71番から77番までの札所7ヶ寺を1日で巡礼する『七ヶ所まいり』という参拝方法があります。
善通寺で生まれた空海ゆかりの地を巡礼した事が始まりだといわれており、江戸時代の案内記などでも勧められているそうです。
コロナの影響を受けているこの頃、7カ寺は参拝者の癒しになればということから「花ごよみ」と称して、手水舎をお花で飾るイベントを行っています。
花手水について詳しくは、こちらをご覧ください。↓↓↓
出釈迦寺の花手水
手水舎
2021(令和3)年4月の作品
2021(令和3)年5月の作品
2021(令和3)年12月末の作品
2022(令和4年)4月
2023(令和5)年、正月
2023(令和5)年、春4月
2023(令和5)年、秋11月
黒板アート「弘法利生」
駐車場の一角に、一枚の黒板アートが展示されていました。
出釈迦寺のある善通寺市は、黒板アートの街として力を入れています。
詳しくは、こちらをご覧ください。↓↓↓
境内
境内案内図
山門
干支別守り本尊
山門前の階段のそばに、奉納建立されていました。
お化けの人形
かわいい手作りオバケが境内のあちこちにありました。
本堂(左)大師堂(右)
求聞持大師
この地を訪れた空海は、虚空蔵菩薩のご真言を一百万遍唱える求聞持の法を修行されました。
奥之院遥拝所
ここから、遥か山の上に建っている奥の院の「捨身ヶ嶽禅定」を遥拝することができます。
石碑には、身を投げる空海を救う釈迦如来と天女の図が描かれていて、お参りすると「捨身ヶ嶽禅定」に登ったのと同じご利益があるといわれています。
縁起
寺伝によると、空海が7歳の時、我拝師山に登って「仏の教えを広めて人々を救いたいという私の願いが叶うものならば釈迦如来が姿を現せ。もし叶わないのなら私の命を仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。
すると釈迦如来と天女が舞い降り、紫色の雲の中で弘法大師を抱きとめました。
命を救われた空海は、青年になってから我拝師山の山頂で釈迦如来を彫って祀ったといわれています。
出釈迦寺の境内から急な坂を50分ほど上がった場所にあるのが「捨身ヶ嶽禅定」といわれている伝説の場所で、元々はここが札所でしたが、今は奥の院となっています。
1600年半ばに現在の地に出釈迦寺が建立されて納経もされるようになり、1920(大正9)年には札所も移されました。
奥の院「捨身ヶ嶽禅定」
出釈迦寺から、かなり急勾配の曲がりくねった道を徒歩で上って行くと、約1時間で我拝師山の標高380mあたりにある奥の院「捨身ヶ嶽禅定」の山門に着きます。
山門からさらに上がった所に、点在していた小さなお堂を統合して建てられた根本御堂(ねもとみどう)があります。
根本御堂の裏手にある岩場を約100m登ると、幼い空海が身を投げたといわれる「捨身ヶ嶽のお行場」となります。
我拝師山と奥の院「捨身ヶ嶽禅定」
参詣道「世坂」
柳の水
「弘法大師御加持水」とされている手水場が登山道の途中にあります。
西行法師の腰掛石
西行が捨身ヶ嶽へ上って行く途中に腰かけて休んだとされる石です。
「捨身ヶ嶽禅定」の山門
「捨身ヶ嶽禅定」の根本御堂
層塔
奈良時代から平安時代中期に建立されたとされる石塔が、山頂にありました。
1000年以上も前に、多くの信者がこの地を訪れていたと思うと感慨深いものがあります。
おわりに
出釈迦寺の奥の院までは、あまりの急勾配を上ったために、次の日は筋肉痛になってしまいました。
讃岐の山はなだらかな丸いものが多いのですが、我拝師山の山頂は断崖絶壁に等しい形状になっていて、上から見るとめまいがしそうです。
今でこそ急な坂ではありますが、コンクリートの道が上まで通っています。
しかし、かつては道なき道の獣道だったことでしょう。
子ども一人で上るのは難しいと思いますが、そこは仏道に身を捧げようとしていた空海なので苦も無く上って行ったことと思います。
山の上からの眺望は素晴らしいものがあり、上って来た苦労を忘れさせてくれました。