定年後の生活ブログ

定年後に行政書士となり、四国のことを発信しています

高知城のすぐ北にある寺田寅彦記念館

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はじめに

寺田寅彦は「天災は忘れられたる頃来る」という有名な言葉を残した人物です。

物理学者ではありましたが、夏目漱石とも親交を持っており、人々の印象に残る名文をたくさん残しています。

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寺田寅彦記念館

寅彦は東京で生まれましたが、父親が購入した家で4歳から19歳までを過ごします。目の前には江ノ口川が流れ、その向こうに高知城がありました。

現在、寺田寅彦記念館として保存・整備されています。

小・中学校と多感な時代を過ごしたところです。まさに寺田寅彦の故郷そのものの地です。

寺田邸の入り口

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母屋

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座敷

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資料室のオルガンと像

オルガンは今でも音が出るように点検・整備されています。

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前庭

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 裏の離れと小・中学校時代の勉強部屋

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生い立ち

1878(明治11)年に東京で高知県士族の両親のもとに長男として誕生しました。

陸軍にいた父の転勤により4歳の時に郷里へ帰り、19歳まで江ノ口村の家(現在の寺田寅彦記念館)で育っています。

この間、江ノ口小学校・高知県立尋常中学校(現在の追手前高等学校)で学びました。

父は宇賀利正と言いましたが、妻の寺田亀の所に婿入りしたので寺田の姓を名乗ります。

とても風流な人だったようですが、気むずかしく妻に厳しく当たっていたようです。

これは父親が「井口事件」に関して、切腹を命じられた実の弟の首をはねるというショ

ッキングな出来事が影響しているのかもしれません。

両親のこうした関係は、子どもである寅彦に何らかの影響を与えていたのではないでしょうか。

青年時代

中学校を卒業してから、熊本の第五高等学校に進学します。

五高では物理学の恩師となる田丸卓郎に数学と物理学を、夏目漱石には英語と俳句を学びました。

漱石とは長く俳句を通じて、親しく交流を深めています。

「吾輩は猫である」に出てくる「寒月くん」は寅彦がモデルとされています。

20歳の時には阪井夏子と結婚し、24歳で長女が生まれましたが、妻夏子は20歳の若さで亡くなっています。

22歳で東京帝国大学の物理学科に入学します。

東京では正岡子規に会い、雑誌「ホトトギス」に俳句や絵を応募しています。

26歳で大学院に入り、27歳で東大講師を嘱託されています。

28歳の時には浜口寛子と再婚し、2男2女をもうけています。

31歳で理学博士、32歳で東京帝国大学助教授となり2年間のドイツ・イギリス留学を経験しています。

39歳で教授となりました。

40歳の時、妻の寛子が結核で亡くなってしまい、3人目の妻となる酒井紳と再婚しています。

「天災は忘れたころにやって来る」

1923(大正12)年に関東大震災が起きます。火事や家屋の倒壊によって多くの人

が亡くなってしまいました。

寅彦は、直後に火炎や地震の調査に活躍しています。

1938(昭和13)年の東京朝日新聞に中谷宇吉郎が寺田寅彦の言葉として「天災は

忘れたころに来る。之は、寺田寅彦先生が、防災科学を説く時にいつも使われた言葉である。そしてこれは名言である。」と紹介しています。

寺田も自身の著作で似たようなことを書き残しています。

「天災は忘れたころにやって来る」という言葉を直接に残しているわけではありませんが、災害に対する強い警鐘を鳴らし、防災の重要性を強く世間に訴えていたことから、この言葉が寺田のものとして定着したようです。

趣味人

夏目漱石や正岡子規との出会いを通じて俳句や文学に興味を持ちます。

毎日の生活で気付いたことや高知の思い出などたくさんの随筆を書き残しました。

音楽にも関心を示し、バイオリンやチェロといった楽器を買って演奏に挑戦しています。

絵も写生から始めて水彩画、油絵などたくさん描いていました。

高知県立文学館

1969(昭和44)年に開設された高知県立郷土文化会館が、1997(平成9)年に高知県ゆかりの作家や文学者を紹介する文学館として開館しています。 

高知城の城郭内にあり、石張りの外壁を有する重厚な建物です。

紀貫之の「土佐日記」をはじめとする古典から、自由民権運動と文学、近現代の高知県を代表する作家など、あらゆる高知の文学を対象として展示・研究がなされています。

この文学館の中に、寺田寅彦記念室が設けられており、その人となりが紹介されていました。

文学館の中にまで展示室があるということは、彼の科学者としての業績はもちろんのこと、文学者としても高い評価を受けていることを示唆するものではないでしょうか。

おわりに

高名な物理学者であり、防災の大切さを人々に啓発した人物であることぐらいしか知りませんでしたが、高知県においては郷土を深く愛し、文学や芸術の面でも大きな業績を残したとして、大切に顕彰されている人物でした。