はじめに
松山市立子規記念博物館は、俳人正岡子規を記念して1981(昭和56)年に開館しました。
正岡子規の世界を通して、松山の伝統文化や文学についての理解を深めてもらうための施設です。
正岡子規とは
1867年松山で生まれ、翌年に慶応から明治に改元されました。
本名は正岡常規(つねのり)幼名が升(のぼる)といいます。
1883(明治16)年に松山中学を退学し上京し、東京大学予備門に入学しました。夏目漱石はこの時の同級生です。
やがて第一高等中学校を卒業して帝国大学哲学科に入学しましたが、1893(明治26)年に退学し日本新聞社に入社しました。
日清戦争の時に従軍記者として中国に渡りましたが、帰国中の船中で吐血します。
神戸で療養した後、松山に帰郷して夏目漱石の下宿(愚陀仏庵)で52日間、連日句会を開きながら一緒に過ごしています。
東京に帰ってからも病は進行し、1902(明治35)年に根岸の子規庵にて死去、享年満34歳でした。
正岡子規はその短い生涯において、俳句の革新運動を成し遂げています。
松尾芭蕉を高く評価し、忘れられていた与謝蕪村を発掘するといった功績を残しています。
俳句の写実による新たな詩情を開拓した人物です。
「 柿くえば 鐘が鳴るなり法隆寺 」
正岡子規と野球
正岡子規は2002(平成14)年、新世紀特別表彰によって野球殿堂入りをしています。
子規は捕手として熱心にベースボールに取り組んでいたようです。
ベースボールを野球と訳したのは鹿児島出身の一高野球部監督の中馬庚(ちゅうまかのえ)ですが、子規は幼名の升(のぼる)にちなんで野球(のぼーる)という雅号を用いたりしました。
子規は英語のベースボール用語を日本語に訳していて、「打者」「走者」「直球」「飛球」は今でも使われています。
ちなみに今は使われていない訳語として、「ピッチャーを投者」「ホームベースを本基」「ホームインを廻了」「アウトを除外」「フォアボールを正球」「バットを棒」というような訳し方をしています。
「 糸瓜(へちま)忌や 野球(のぼーる)追いかけ 子規の夢 」
最後に
34歳という、あまりにも若くして人生を終えた正岡子規でしたが、文学史に残した足跡は大きなものがあります。
忘れてはならないのが、病の子規を献身的に支えていた母の八重と妹の律の存在です。
子規が亡くなってから、律は共立女子職業学校に学び同校で和裁の教師となっています。
母を看病するために退職した後には財団法人子規庵保存会の初代理事長となりました。
子規の活動は家族の支えがあってこそ、後世にその足跡を残すことが出来たのだと思いました。