別子銅山は住友の源流
住友家は江戸時代に大阪で銅の精錬をすることで、事業を拡大していきました。
さらに1690年に別子銅山を発見して、採掘を開始するようになりました。
これが住友の躍進の基となっています。
別子銅山は1973(昭和48)年に閉山されるまで銅を産出し続け、産出量は65万トンにおよんでいます。
300年近く採掘を続けることで日本の産業の発展に貢献してきました。
この間、住友を冠する会社が設立されており、何らかの形で別子銅山に繋がっていることから、別子銅山は住友の原点であり源流ということになります。
別子銅山記念館
住友発展の礎となった別子銅山の意義を伝えるために、住友グループによって運営されているのが「別子銅山記念館」です。
「別子銅山記念館」と大山積神社の鳥居
地下深く採掘されている銅山をイメージしており、半地下式で、屋根にはツツジが一面に植えられたユニークな建物となっています。
記念館入り口のロビーには「大鉑」が展示されています。
これは銅鉱石を飾りの藁で束ねたものを、元旦に、古式にのっとって、隣にある大山積神社に奉納していたものです。
記念館の内部は、
「銅鉱床の発見から閉山までの歴史についてのコーナー」
「別子銅山や周辺の地質などのコーナー」
「鉱山作業や生活などのコーナー」
「採掘に関する技術を紹介するコーナー」
に分かれており、それぞれ関連する展示がなされています。
別子銅山の歴史やそこに関わっていた人々の生活、技術的な発展・進化について詳しく説明されていました。
大山積神社
「別子銅山記念館」のすぐ隣に大山積神社があります。
1691年、住友家が別子銅山を開業するにあたって、鉱山鎮護のため大三島(愛媛県今治市大三島町)にある大山祇神社の大山積神を分霊したことに始まります。
神社の境内には「別子1号機関車」が保存展示されていました。
1892(明治25)年にドイツから鉱山専用鉄道用として輸入され、その後、幾多の変遷を経ながらも1950(昭和25)年まで新居浜の陸運を支える活躍をしてきました。
黒光りする車体には、住友家ゆかりの井形のマークが取り付けられており、住友家と別子銅山及び新居浜との並々ならぬ関係をうかがい知ることが出来ます。
おわりに
別子銅山がこれほどまでに住友家とつながりが深いものであることを、改めて認識することのできる記念館でした。
今でも多くの住友を冠した大企業がありますが、別子銅山の存在は住友だけでなく日本の産業界においても重要な役割を果たしていたのではないかと思いました。