はじめに
通常、お寺は○○寺という名称が多いのですが、55番札所は四国霊場の中で唯一「○○坊」となっています。
かつては、神は仏が世の人を救うために姿を変えてこの世に現れたという、神と仏は同じであるとする神仏習合の考え方によって、隣にある「別宮大山祇神社」と一体として考えられていました。
このためお遍路さんは神社を札所として参拝していましたが、明治になって神仏分離となったので札所は南光坊に移されました。
南光坊境内
山門
お寺の由来から「日本総鎮守三島地御前」という額が掲げられています。
四天王像
外側と内側に四天王像が配置されています。
本堂
本尊は釈迦如来の父であるとともに師とされている大通智勝仏です。
松尾芭蕉の句碑
「ものいへは唇寒し秋の風」
大師堂
太平洋戦争の空襲時、たくさんの焼夷弾が境内に落ちてきましたが、大師堂内にいた避難者は全員が無事であったそうです。
干支の彫刻 大師堂には12干支が彫られていて、今年の干支である丑の彫刻もありました。
筆塚 ゆかりのあった書道家川村驥山を記念しての筆塚です。
別宮大山祇神社
入り口の鳥居
拝殿へ
拝殿
本殿
御祭神は大三島にある大山祇神社の大山積神(おおやまずみのかみ)です。
縁起
南光坊の隣にある別宮大山祇神社は、703(大宝3)年に越智玉澄が文武天皇の勅命によって大三島にある大山祇神社の神さまである大山積神(おおやまずみのかみ)の分霊を迎えたのを始まりとしています。
この場所で「日本総鎮守三島の地御前」の別宮と称しました。
空海は9世紀初めに別宮大山祇神社を参拝しています。
鎌倉時代の初めには大三島にあった大山祇神社の24僧坊のうち、8坊が別宮に移されました。
16世紀の終わり、天正年間に長曾我部軍による兵火によって僧坊は焼き払われましたが、南光坊だけが再建されています。
この南光坊は別宮大山祇神社の別当寺(神社を管理するためのお寺)となり、神社に参拝した後に南光坊で納経するようになりました。
江戸時代には、今治城を築いた藤堂高虎をはじめとして、歴代の今治藩主により庇護されてきました。
明治維新になって神仏分離令が出されると、別宮の本殿に安置されていた大山積明神の本地仏である大通智勝如来と札所が南光坊に移され、別当関係は解消されました。
神社とお寺は別々となったわけです。
おわりに
江戸時代まで神仏習合ということで、南光坊と隣にある別宮大山祇神社は一体でした。
今は南光坊が55番札所としてたくさんのお遍路さんを迎え入れていますが、お隣の別
宮大山祇神社もあわせて参拝して欲しいと思います。