- はじめに
- 新居浜市の観光地図
- 別子銅山
- ①別子銅山記念館
- ②旧広瀬宰平邸と広瀬歴史記念館
- 新居浜市にある住友関連企業
- ③東平(とうなる)歴史資料館
- ④端出場(はでば)にある道の駅「マイントピア別子」
- ⑤愛媛県総合科学博物館
- おわりに
はじめに
古代、新居浜は丹比井(にひゐ)郷と呼ばれていました。やがて平安時代初期に新居郷となり、瀬戸内海岸に近い北部を新居浜と言うようになったようです。
東予地方の中心都市であり、絢爛豪華な太鼓台が練り歩く新居浜太鼓祭りが有名です。
江戸時代初め、住友家によって別子銅山が開発され、以来、住友グループの企業城下町として発展してきました。住友を中心とした工業都市として「工都・新居浜」といわれています。
今治市に次いで愛媛県第3位の人口11万5千人を有している東予地方の中心都市です。
新居浜市の沖に浮かぶ小さな島「大島」で育つ、珍しい白いイモ「七福芋」で作ったお酒が名物です。
新居浜市の観光地図
別子銅山
1690年、切上り長兵衛が露出していた銅鉱を見つけたことが発端となって開発されるようになります。
阿波土成町出身と考えられる長兵衛の記念碑が道の駅「どなり」にあります。詳しくはこちらをご覧ください。↓↓↓
①別子銅山記念館
1691年、住友家によって銅の採掘が始まり、1973年(昭和48年)までの300年近く一貫して住友家が開発しています。
別子銅山の歴史についての資料館が住友グループによって運営されています。
緑の芝生のような屋根の下が記念館です。
住友家による別子銅山の記録については、こちらをご覧ください。↓↓
②旧広瀬宰平邸と広瀬歴史記念館
江戸時代の終わりになると銅の生産量が減少して採算が合わなくなってきたので、住友家は別子銅山を手放すことも視野に入れるようになります。
明治初め、支配人の広瀬宰平はあくまで住友家の経営にこだわり銅山の近代化に乗り出します。
近代における住友の発展を築いた広瀬宰平の邸宅と記念館です。
広瀬宰平について、詳細はこちらをご覧ください。↓↓
新居浜市にある住友関連企業
新居浜市は別子銅山から発展してきました。鉱石の採掘から、精錬、関連して発生した化学工業、機械工業などの住友系企業が、今も新居浜で操業しています。
住友化学、住友金属鉱山、住友重機械工業、住友林業の新居浜4社が事業所を置いています。
住友を冠した病院もあり、いわゆる新居浜市は住友の企業城下町といったところです。
別子銅山の産業遺産
1973年(昭和48年)に閉坑しますが、残された産業遺産を活用した観光施設が整備されています。新居浜市の新たな観光資源として活用されています。
③東平(とうなる)歴史資料館
1916年(大正5年)から1930年(昭和5年)まで採鉱本部が置かれていた所で、5000人もの人々がここで暮らしていました。
別子銅山の産業遺構として保存されています。
詳しくはこちらをご覧ください。↓↓
④端出場(はでば)にある道の駅「マイントピア別子」
採鉱本部が東平地区から1930年(昭和5年)に移転され、1973年(昭和48年)の閉坑まで使用されました。
閉坑された後、別子銅山をテーマパークとした道の駅「マイントピア別子」がこの地に作られました。
観光鉄道も運行されていて、1892(明治25)年にドイツから輸入された蒸気機関車の別子1号機をモデルにした電気軌道車が使用されています。
詳しくはこちらをご覧ください。↓↓
⑤愛媛県総合科学博物館
近代的な建物の中に、動く恐竜をはじめとして科学の歴史や発展に関するたくさんの展示があります。
詳しくは、こちらをご覧ください。↓↓↓
おわりに
新居浜の歴史は、別子銅山を経営していた住友と共に発展してきました。
住友の企業城下町と言われる所以です。
今でも、銅山経営から派生した産業技術を基盤とした住友グループの事業所が操業を続けています。
工業都市にふさわしい観光地として、産業技術に関する資料館があちこちにありました。