愛媛県新居浜市
古代、新居浜は丹比井(にひゐ)郷と呼ばれていました。
やがて平安時代初期に新居郷となり、瀬戸内海岸に近い北部を新居浜と言うようになったようです。
東予地方の中心都市であり、絢爛豪華な太鼓台が練り歩く新居浜太鼓祭りが有名です。
江戸時代初めに、別子銅山が住友家によって開発されることで新居浜は発展してきました。
別子銅山
1690年、切上り長兵衛が露出していた動向を見つけたことが発端となって開発されるようになります。
1691年、住友家によって銅の採掘が始まり、1973年(昭和48年)までの300年近く一貫して住友家が開発しています。
住友家による別子銅山の記録については、こちらをご覧ください。↓↓
江戸時代の終わりになると銅の生産量が減少して採算が合わなくなってきたので、住友家は別子銅山を手放すことも視野に入れるようになります。
明治初め、支配人の広瀬宰平はあくまで住友家の経営にこだわり銅山の近代化に乗り出します。
広瀬宰平について、詳細はこちらをご覧ください。↓↓
企業城下町の新居浜市
新居浜市は別子銅山から発展してきました。
鉱石の採掘から、精錬、関連して発生した化学工業、機械工業などの住友系企業が、今も新居浜で操業しています。
住友化学、住友金属鉱山、住友重機械工業、住友林業の4社が新居浜市に事業所を置いています。
住友を冠した病院もあり、いわゆる新居浜市は住友の企業城下町といったところです。
別子銅山の産業遺産
別子銅山は、1973年(昭和48年)に閉坑しますが、残された産業遺産を活用した観光施設が整備されています。
新居浜市の新たな観光資源として活用されています。
東平(とうなる)地区
1916年(大正5年)から1930年(昭和5年)まで採鉱本部が置かれていた所で、5000人もの人々がここで暮らしていました。
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端出場(はでば)地区
採鉱本部が東平地区から1930年(昭和5年)に移転され、1973年(昭和48年)の閉坑まで使用されました。
別子銅山をテーマパークとした道の駅「マイントピア別子」がこの地に作られました。
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おわりに
新居浜の歴史は、別子銅山を経営していた住友と共に発展してきました。
住友の企業城下町と言われる所以です。
今でも、銅山経営から派生した産業技術を基盤とした住友グループの事業所が操業を続けています。
今後も四国の工業都市として、益々、発展していって欲しいものです。