はじめに
第1次世界大戦の時に日本の捕虜となったドイツ兵が収容されていた坂東俘虜収容所の跡が公園として保存されています。
この公園は日本の歴史公園100選にも選定されている歴史的な遺構が残されている公園です。
歴史公園とは、歴史的・文化的資源を有して地域の活性化に貢献している公園が都市公園法の施行50周年を記念して選定されたものです。
坂東俘虜収容所設立の経緯
1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発すると日本は、青島を拠点として山東半島を植民地としていたドイツ軍と戦いました。
ドイツ軍との戦いは早期に終結し、4600名以上の捕虜が日本へ移送されます。
戦争が長期化したため日本各地に分散収容されていた捕虜の内、約1000名が集められ、1917(大正6)年春、この地(当時は板野郡板東町)に収容所が設置されたのです。
以来、1920(大正9)年に閉鎖されるまでのおよそ3年間に渡って捕虜生活がこの地で営まれました。
跡地
公園の入り口
右側には「板東俘虜収容所跡」左側には「『第九』日本初演の地」と書かれた門柱が立っています。
施設配置図
鳴門教育委員会が坂東俘虜収容所の説明と施設配置図の看板を掲げていました。
現在、収容所の東側、約3分の1が公園とされています。
兵舎第5棟の遺構
捕虜が住む兵舎は正門から北に延びる大通りを挟んで、左右に4棟ずつ合計8棟が建てられました。
公園の中にはその一部である兵舎第5棟のレンガ基礎が残っています。
製パン所、売店付属便所、給水施設



生活に必要な施設の遺構もありました。
水は近くの坂東谷川から水を引いてきて使用したようです。
「友愛」の碑
公園の中ごろに「友愛」という文字を刻んだ碑が設置されています。
1978(昭和53)年、市民の憩いの場、日独友好の広場となることを願って作られたもののようです。
慰霊碑
1919(大正8)年、亡くなった11名を慰霊するため、捕虜たちによって建立された慰霊碑です。
収容所が閉鎖されてからは荒れ果ててしまっていました。
第2次世界大戦後に地元住民によって発見され、以来、清掃活動とともに慰霊されていたのがきっかけで、再び元ドイツ兵捕虜との交流が始まりました。
合同慰霊碑
全国の収容所で亡くなった87名のドイツ人捕虜を慰霊するために、1976(昭和51)年に建立されました。
赤十字ゆかりの地
坂東俘虜収容所では松江豊寿所長により、捕虜たちの人権を最大限尊重する運営を行っていました。
スウェーデン赤十字が収容所の視察に訪れた時、ロシアのウラジオストックで過酷な収容所生活を送っている仲間のためにチャリティー演奏会を開催することになります。
その際に作成されたポスターには赤十字のマークが印刷されていました。
このような演奏会が出来たのも、坂東俘虜収容所における捕虜への人道的な配慮があったからこそでした。
この史実を基に、日本赤十字社徳島県支部が鳴門市の協力を得て、ここにモニュメントを設置したものです。
おわりに
厳しい戦争の時代にあって、坂東俘虜収容所では捕虜に対する人道的な対応があったことを知ることが出来ました。
不幸にも故郷を遠く離れたこの地で亡くなった捕虜の慰霊碑を、地元の方々が大切に守ってきていること、そしてそのことを通して日独の交流が深まったことなど改めて鳴門市の人々のすばらしさを感じました。