はじめに
大平元首相は、その風貌や言動から「讃岐の鈍牛」と言われていました。
特に「あ~、う~」と前置きしながら、言葉を絞り出す様子は流行語にもなり、子供がまねをしていたようです。
しかし田中角栄元首相は「あ~、う~を省けばみごとな文語文になっている」と評し、池上彰さんは「膨大な読書量に裏打ちされた、政界屈指の知性」であったとしています。
朴訥で謙虚な人柄で「戦後政界指折りの知性派」との評が一般的のようです。
大平正芳記念の場所
大平正芳元首相の故郷である観音寺市や豊浜町には、ゆかりの記念館やお墓があります。
①大平正芳記念館
観音寺市有明浜にある道の駅「ことひき」の建物の2階に、ゆかりの品々を展示している記念館があります。
故郷に帰って来た時に、くつろいでいた和室が復元されていました。
窓は警備の関係で防弾ガラスにしているそうです。
②大平正芳記念コーナー
豊浜町にある図書館の一角に展示室が設けられています。
③墓所
瀬戸内海を望める故郷の地に墓所が営まれています。綺麗な生花が生けられていました。
④大平記念通り
豊浜町を通る国道11号線の一部が「大平記念通り」と名付けられています。
⑤豊浜神社の銅像
神社の一角に、瀬戸内海の方を向いて銅像が建てられています。
生い立ち
1910(明治43)年、現在の香川観音寺市豊浜町に農家の3男として生まれています。旧制三豊中学校(現在の観音寺第一高等学校)に学んでいましたが、4年生の時に腸チフスに罹り4か月の間、生死の境をさまよいました。
高松高等商業学校(現在の香川大学経済学部)に入学した時にキリスト教に出会って洗礼を受けています。
奨学金を得て東京商科大学(現在の一橋大学)に進学しました。
大蔵省で勤務
1935(昭和10)年高等試験に合格します。当時、大蔵次官だった同郷の津島壽一により大蔵省に採用され、税務畑を歩んでいます。
政治家
1952年(昭和27年)、池田勇人の誘いを受けて大蔵省を退職。
衆議院議員総選挙に旧香川2区から立候補し初当選して以来、連続11回当選しました。
4年にわたる外務大臣としての任期中には、日韓、日中交渉で重要な役割を担っています。
1978(昭和53)年12月首相に就任し、田園都市構想・環太平洋連帯構想を提唱しています。
ソ連のアフガニスタン侵攻に対して、「西側陣営の一員」としてモスクワオリンピックをボイコットしました。
1980年(昭和55年)自民党内の抗争から衆議院で内閣不信任決議案が可決され、解散総選挙となります。
選挙期間中に、心不全によって70歳で突然に亡くなりました。
おわりに
記念館や墓所・銅像を通して、故郷をこよなく愛し、また、地元の人々にも慕われた大平元首相の人となりを知ることが出来ました。
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