はじめに
徳島県出身で唯一、首相となったのが三木武夫です。
第65代田中角栄首相が金脈問題で退陣した後の第66代首相に選出されます。
お金にクリーンであるとされて「クリーン三木」といわれたりもしていました。
当選19回、在職51年の長きにわたり衆議院議員を務め、衆議院正面玄関に胸像が設置されているようです。
三木武夫元首相は徳島県出身で、故郷の地である土成町に三木元首相を記念する施設がいくつか作られていました。
銅像
徳島自動車道土成インターチェンジを降りて、すぐ山手側に土成中央公園があります。
園内には、当地で生ま育った三木武夫元首相のブロンズ像が吉野川を遠望しているかのように設置されています。
実家跡地
阿波市は、親族により寄贈された実家跡地に、遍路道沿いでもあることから「おもてなし公園」を整備しました。
「人、信なくば立たず」と刻まれた、人の文字をかたどった記念碑が置かれています。阿南工業高等専門学校創造技術工学科の学生によってデザインされ、文字は三木武夫自筆のものです。
記念碑の土台部分には、実家で使われていた礎石を並べて配置しているそうです。
土成歴史館
近隣の地域から出土した化石、土器などの遺物や土成地域の民俗的な資料が展示されています。
土成町出身の三木武夫元首相の遺品もたくさん展示されていました。
子供の頃に使っていた勉強机と作詞をした土成中学校の楽譜(作曲は古賀政男)
徳島時代
1907(明治40)年、現在の徳島県阿波市土成町で長男として誕生しています。兄弟はなく一人っ子です。農業の傍ら商売をしている農商人の家で、讃岐山脈と吉野川に挟まれた静かな農村地帯で少年時代を過ごしました。
小学校の頃から弁論がうまいといわれていました。家が商売をしている関係で、徳島県立商業学校に入学し、ここで弁論部に入部して活動しました。野球部バザー会計の不正問題を追及したのですが、不正は明らかにならず首謀者として退学処分となってしまいます。
この後、親戚を頼って大阪へ行き、私立中外商業学校(現在の兵庫県立尼崎北高等学校)に編入しています。
明治大学
私立中外商業学校卒業後に明治大学専門部商科に入学しました。大学の先輩で、のちに徳島市長を務める長尾新九郎が、三木を雄弁部に勧誘して入部することになりました。明大雄弁部キャプテンとして他大学生とも活発に交流しています。
卒業後、明治大学法学部に入学するとともに、さらに欧米に遊学しています。この時、欧州でムッソリーニ、ヒトラー、スターリンの独裁体制を見分して違和感を持ち、その後の政治活動に影響を与えたようです。
帰国した後に、米国に留学し南カリフォルニア大学やアメリカン大学に通っています。
留学から帰国して1937(昭和12)年、明治大学法学部を卒業しています。
卒業後、すぐに選挙に立候補して議員活動を始めました。
おわりに
三木武夫元首相の生家は商売をしながら農業を営んでいる農商家であり、富農ではなかったということでした。片田舎の、そのような環境から、弁論一つを武器にして世に出ていき、首相にまでになった人物のようです。
三木武夫の故郷を思う人柄があったればこそ、地元の人々は長期間にわたり政治的に支えて支援していたのだと思いました。