はじめに
高知の桂浜から3kmほど西へ行った所に、こぢんまりとした庶民的なお寺があります。
駐車場から階段を上がると、すぐ境内です。
境内には土佐名物の文旦をはじめとした、お土産物販売のテントがありました。
売店のおっちゃんによる自信作も展示されていました。
境内
土井保の墓・本堂・大師堂・長曾我部信親の墓
坂本龍馬の剣の師匠~土井保とその妻の墓碑~
土居保(楠五郎)は日根野道場の師範代で、14歳から道場に通ってきた坂本龍馬を指導し、人間形成にも深い影響を与えたといわれています。
1867(慶応3)年、龍馬が最後に帰郷した時にも会っています。
歴史上の人物を指導した人の墓石が、夫婦そろって残っていました。
本堂
御本尊は鎌倉時代の仏師・運慶の晩年の作による薬師如来さまです。国の重要文化財に指定されています。
本堂の前にはびんずる尊者さまと、木のお地蔵さまや何故かカッパ?のお遍路さんが仲良く並んでいらっしゃいました。
びんずる尊者さまの台座には「摂津国西宮町遊郭中」(兵庫県西宮市)とあります。遊郭で働いていた人々が寄進したもののようです。
大師堂
境内の真ん中にはしだれ桜があり、そろそろ開花の時期を迎えます。満開になるときれいでしょうね。
長宗我部信親の墓所
長宗我部信親は長宗我部元親の長男です。立派に成長し、一族家臣の信望もあり大いに将来を期待されていました。
信親の”信”の字は織田信長から授かったものといわれています。
信親は文武に優れた期待の星でしたが「戸次川(へつぎがわ)の戦い」(大分県)の時に、22歳の若さで戦死してしまいました。
縁起
寺伝によると、空海によって創建され「高福寺」と称していました。
「土佐国編年紀事略」によると1225年創建とされています。寺に伝わる毘沙門天は湛慶の真作で、この頃の作と推定されており重要文化財です。湛慶は運慶の嫡男で、京都の三十三間堂にある本尊千手観音像(国宝)の作者として有名です。
1588年の検地帳には「慶雲寺」と記されていまが、その後、廃寺となってしまいます。16世紀末に月峰和尚が住職になると、長曾我部元親の庇護によって臨済宗の寺として復興します。
1599年、長曾我部元親が病没すると、元親の法名から雪蹊寺と名付けられました。
江戸時代には南学発祥の道場といわれ、野中兼山などの儒学者を輩出します。
明治になると、廃仏毀釈の影響で、1870(明治3)年に廃寺となってしまいましたが、大玄和尚により1879(明治12)年に再興しています。
秦神社
現在の雪蹊寺の隣にあります。
1870(明治3)年に雪蹊寺が廃寺となったため、寺に安置されていた長曾我部長宗我部元親公の木像、肖像画(国の重要文化財)を譲り受けて創建されました。
長宗我部元親を祭神として祀っています。
入り口の鳥居
参道
参道には戦国武将のイラストがいくつもありました。
拝殿
おわりに
雪蹊寺は、長宗我部元親や坂本龍馬、運慶・湛慶といった歴史に名を残している人物と深くかかわっています。
地味な田舎のお寺という感じですが、庶民の信仰を集めて、気軽にお参りできる雰囲気のある親しみやすいお寺でした。