はじめに
大寶寺(だいほうじ)は標高579mにあります。かなり高い所にあると思いましたが、山の上というわけでもありません。
大宝寺がある久万高原町は、その名の通り四国山地に囲まれた高原の町で、海からも遠く盆地の中のようなので、あまり標高を感じることはありませんでした。
四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分である44番目の札所ということで「中札所」といわれているお寺です。
池の七福神像
境内にあるお庭の池に、ちょこんと七福神様たちがおわしました。
境内
境内案内図
仁王門
山中の樹々の間に、そびえ立っていました。
仁王門にある阿吽の金剛力士像は15世紀に越前の仏師によって作られたとされています。
1874(明治7)年の大火で、門は焼失しましたが仁王像は無事で、今に至っています。
仁王門には、札所最大級といわれる巨大なわらじが奉納されていました。
本堂への階段
鐘楼
本堂の前には、鐘楼が二つあります。一つは、太平洋戦争で亡くなった地元の方々の霊を供養するものだそうです。
本堂
本尊は十一面観世音菩薩さまです。
厄除観音像
本堂と大師堂の間にあります。
大師堂
掘出観音堂
1934(昭和9)年に山中から平安時代後期〜鎌倉時代初期にかけての金銅製の観音像が掘り出されました。
樹齢1000年と思われる杉の根元で、法華経が一字一石に書かれた約130枚の石に覆われていたそうです。
身体から悪いものを掘り起こしてくれる有り難い仏様といわれて信仰されています。
縁起
寺伝によると、百済層が渡来してきて十一面観世音菩薩を山中に祀ったのが始まりとされています。
大宝元年(701)年に安芸国(広島)から来た猟師の明神右京、隼人の兄弟が草に埋もれていた観音像を見つけて祀り、そのことを知った文武天皇の勅命によって元号に合わせた寺院が建立されたといわれています。
9世紀初めに空海が訪れたときに天台宗から真言宗に改宗されたということです。
12世紀半ばに寺は焼失してしまいましたが、後白河天皇の病気平癒を祈願したところ脳の病が治ったということから、天皇は妹宮を住職として下向させ勅願寺として再興されたといわれています。
16世紀末には長宗我部氏による「天正の兵火」で焼失してしまいましたが、17世紀末に伊予松山藩の支援で再興しています。
明治初めには、三度目の焼失をしてしまいましたが、今度も地元の人々によって復興を果たしています。
芭蕉塚
芭蕉の50回忌、1743年に建てられた四国で最も古いもののようです。
裏に「薬のむさらでも霜の枕かな」と刻まれています。
おわりに
奈良時代よりもはるか前に創建されたという、長い歴史を有するお寺ですが、3回も壊滅的な状況に陥っています。
そのたびに有力な支援者が登場して再興されていますが、やはり、最後は地元の人々の手によって復興が果たされて現在に至っているようです。
地元の人々による篤い信仰心によって守られてきたお寺であると思いました。
仁王門の雄姿
門をくぐり、振り返って見た仁王門の姿です。