はじめに
作礼山の山頂付近にある仙遊寺に車で向かっている途中で、今治市の街並みや遠く「しまなみ海道」の架橋、穏やかな瀬戸の海と島々の景観が一望できる所がありました。
しかし、傾斜のきつい急な道が続いていて、所々には今にもがけ崩れしそうな箇所もあり、人を容易には寄せ付けない程の厳しい山中にあるお寺でもあります。
境内
竜女宮の放生池
仁王門のすぐ下にあります。
本尊の千手観音菩薩像は、海から来た竜女が彫ったという伝説もあります。竜女にちなんだ鳥居でしょうか。
仁王門
山中にある新しい堂々とした山門でした。迫力のある仁王像を見ることができました。
門をくぐったところから、急峻な山道を上がっていきます。所々に観音様の像が置かれていました。
阿坊仙人の像
「仙遊寺」の名前の由来は、阿坊仙人という僧が40年にわたって修行を行い、伽藍を整備しましたが、718年、雲と遊ぶかのように突然いなくなってしまったことからといわれています。
お寺の名前に由来する阿坊仙人の像もありました。
子安観音像
駐車場から本堂に向かう道に赤ん坊を抱えた観音さまの像がありました。
境内全体
本堂
本堂内部
四国で一番大きい賓頭盧尊者像
大師堂
修行大師像を八十八の舟形石仏が取り囲んでいます。
縁起
天智天皇の勅願により、伊予国守越智守興(もりおき)が堂宇を建立したとされています。
本尊の千手観音菩薩像は、海から竜登川を伝って上ってきた竜女が彫ったとされており、このことから竜宮から届けられたという伝説もあります。
663年の白村江の戦いの後、朝鮮半島からの追撃に備えて九州・瀬戸内海に防衛線を張り、監視警戒のための山城を各地に造営しました。
来島海峡を望むことのできる、眺望に優れた作礼山も防衛の拠点とされていたと考えられています。
山頂には天智天皇ゆかりの五輪塔もあります。
空海が四国巡錫の折に当寺を訪れた時、病に苦しむ人々を救済しようと井戸を掘り、荒廃していた堂宇を修復して再興したとされます。
お寺のある作礼山は、古来、眺望に優れた軍事上の要衝であったために、城(砦)があったとの記録が残っています。
このため源平の争乱、南北朝時代や戦国時代には戦乱に巻き込まれています。
こうした戦乱の時代の記録が「仙遊寺文書」として残されていましたが、残念ながら1947(昭和22)年の山火事により消失してしまいました。
しかし、地域の人々によって御本尊と大師像は焼失を免れています。
江戸時代には衰退して荒廃したようですが、江戸末期から明治初期には宥蓮(ゆうれん)上人が再興しました。
宥蓮上人は1871(明治4)年、日本最後の即身成仏として入定されています。
1953(昭和28)年に本堂が、1958(昭和33)年に大師堂が再建され、現在に至っています。
おわりに
休憩所がお寺に上って行く道の上り口に「おへんろさん休憩所」があります。地元の方のお遍路さんに対する優しさが形に表れているようです。
かつて火災があった時には、ご本尊や大師像が地域の人々によって守られたように、仙遊寺は地元の人々によって大切にされている札所であると感じました。