はじめに
16番札所観音寺は住宅街の中にあるこぢんまりとしたお寺ですが、道に面した山門は堂々とした立派なもので圧倒的な存在感がありました。
お寺のある国府町は、阿波の人形浄瑠璃に使用する人形制作者(人形師)を多く輩出した町だそうです。
徳島市天狗久資料館
天狗久とは
阿波の人形浄瑠璃が盛んであった江戸から明治時代には、たくさんの人形師(人形製作者)がいました。
なかでも初代天狗屋久吉(略して天狗久、本名は笠井久吉)は、明治から昭和にかけて多くの名作を残した阿波の人形師です。
16歳で人形師に弟子入りし、10年間の修行の後に独立して、その工房を「天狗屋」と称しました。1943(昭和18)年に逝去、享年86歳までに千体以上の人形を制作していた工房がそのまま資料館として保存されています。
「天狗屋久吉心願の言葉」石碑と宇野千代
資料館の近くに初代天狗久の碑が建立されている一角があります。宇野千代さんの「天狗屋久吉心願の言葉」が刻まれていました。
天狗久作「お弓」に引き寄せられた宇野千代が、戦争中に天狗久を取材して「人形師天狗屋久吉」を出版したことで人々の関心がより一層、高まりました。
宇野 千代は山口県岩国出身で、大正・昭和にかけて文筆家、編集者、着物デザイナー、実業家としてさまざまな分野で活躍しました。
多くの著名人との恋愛・結婚遍歴を持ち、波乱万乗の生涯が作品の中で描かれています。
阿波の人形浄瑠璃
その起源は淡路の人形浄瑠璃にあるといわれています。
阿波・淡路藩主の蜂須賀家の庇護のもと淡路人形座が徳島城下で活動したことから江戸・明治時代に繁栄しました。
太棹三味線の伴奏と義太夫節、三人遣いの人形芝居で創作される芸能です。
16番札所観音寺
縁起
寺伝では聖武天皇が各国に国分寺・国分尼寺を創建した時に、行基に命じて勅願道場として建立されました。
816年、この地を空海が訪れて千手観音像を刻んで本尊としました。長曾我部軍による兵火による罹災などで衰退しますが、江戸時代には蜂須賀家の帰依を受けて1659年に再建されています。
大正時代には盲目の高松伊之助さんが両親と共に参拝したところ、ご利益によって目が見えるようになったという話があります。
境内(山門・本堂・夜泣き地蔵)
山門
境内はそんなに広くないのですが、山門は周囲を圧倒するような大きさでした。
本堂
夜泣き地蔵
祈願すると、子供の夜泣きを止めてくれるとされるお地蔵さんです。
阿波国総社
本堂のすぐ隣に阿波国総社があります。
昔、国司が任地に赴任した時、定められた順に神社を参拝していました。近くの神社ばかりであればいいのですが遠い神社もあるので、国府の近くに「総社」を定めて、そこに参拝するようになったものです。
おわりに
阿波の人形浄瑠璃に深く関係している町にある札所です。
栄枯盛衰はあったようですが、巨大な山門に見られるように、多くの人々の信仰を集めていた歴史を窺うことができました。
人形浄瑠璃が盛んな地で、人々の喜怒哀楽と共に歩んできたお寺だと思いました。