法然と讃岐
1207年、浄土宗の開祖である法然上人は旧仏教側の弾圧により、75歳の時、四国に流罪となりました。
京都を離れたあと摂津から塩飽諸島の本島に着き、しばらく滞在します。
その後、善通寺に詣でてから讃岐の小松荘(香川県まんのう町)に草庵を営み、約8カ月の期間滞在しています。
香川県まんのう町にある西念寺は、法然上人が滞在した生福寺の跡に再建された寺で、上人ゆかりの遺品や遺跡を見ることができます。
西念寺
住職の話
西念寺を訪れた時、住職にお話を伺うことが出来ました。
「法然はこの地で何か月が過ごしているのは、本来、土佐へ流罪になる所を、あまりにも遠いということで、九条家が自分の所領であったこの地で過ごせるように働きかけたからです。
のちに許されて摂津の国に移るまで、この地で過ごしました。


江戸時代に高松藩が幕府に願い出て、荒廃している生福寺を高松の仏生山に移し法然寺を建立するのですが、その時に一切合切を持って行ってしまいます。
しかし、巻物である『宝珠の御影』は持って行かれることなく、寺宝として今に伝わっているのです。」
宝瓶の御影
本堂には、上人自筆と伝えられる「宝瓶の御影」が残されています。
写真に撮って拡大したものを見ることができました。
住職さんによると、おそらくは絵師が法然のお姿を見て描いたものだろうということです。
よく見ると、法然の頭に宝冠が載せられています。
この寺宝の本物を見せてくださいました。
小さな巻物に法然様のお姿が描かれているものです。
頭の宝冠は金箔が貼られているのですが、わずかに残っているのが確認できました。
また、唇の赤色も認められるほどに残っています。
全体には小さなお姿なので、これを写真として拡大して額に納めています。
親鸞も師匠の法然を描いており、法然によるチェックも受けたそうです。
その絵は自らの懐に生涯、納めていたということでした。
豆腐を冷やした井戸
山門の脇から小高い山に上って行く道があり、途中に竹囲いされた小さな井戸があります。
法然上人が村人からもらった豆腐を冷やしたといわれる井戸です。
御廟
井戸の手前の道を右に折れて行くと、そこに小さなお堂が建っています。
「法然上人が入滅した後、弟子の堪空(たんくう)上人がゆかりの深い讃岐に遺骨を持って来てくれて埋葬したということです。
法然は知恩院で亡くなっていますが、荼毘に付されたのは長岡京であったようで、遺骨は何か所かに分骨されているようです。
お弟子さんの堪空がわざわざ持って来てくれていることからも分かるように、讃岐と法然との縁が深いことを知ることが出来ます。」
これが、お寺にある法然の御廟だということでした。
おわりに
お寺は田んぼが広がる田園地帯のそばにひっそりとたたずんでいます。
地元の方々の先祖伝来のお墓も多く建立されており、お母さんが自転車に乗ってお花を供えに来ていました。
浄土宗を始めた法然にゆかりがあり、御廟まで建立されているお寺が人々の暮らしの中で、大切に守られてきています。
讃岐には法然に関するお話がたくさんあるようですが、法然の人柄を市井の人々が深く慕っていたことを物語っていると思いました。